第7話 数学者は二つの異なった世界に住んでいる3

 そう言われ数渡が連れられて行った先は「三〇〇号室」という樹神が普段生活している部屋であった。そういえば明の部屋は六つ隣の部屋だ、と数渡はふと思い出した。部屋に入ると、そこは数渡の暮らす「〇八一号室」よりも随分と生活感があるように思われた。机の上には本の山ができている。中には雑誌や漫画も見受けられるが、そんなものを一体どこで手に入れたのだろうか。


「お邪魔します。」


 おずおずとそう言いながら部屋に入る数渡を見て、樹神は笑った。


「別に母ちゃんがいるわけじゃないんだから気軽に入れよ。」


 数渡はそう言われても緊張してしまった。他人の家に上がり込むなど何年ぶりだろうか。数渡は樹神に言われるがまま椅子の上に腰を下ろした。


「なんか飲む?」


 樹神はそう言いながら備え付けの冷蔵庫の中を探っている。樹神もやはりここに来て長いのだろうか。その様子は随分とここでの生活に慣れているようだと数渡は感じた。


「酒もあるぞ。」


そう言って樹神は冷蔵庫の中から缶ビールを二本取り出した。


「いや、僕は未成年だから。というか樹神君もだよね?」


 驚いて数渡が言うと、樹神は少しつまらなそうな顔をした。


「何だよ、お前そういう真面目なところは昔と変わってないんだな。ここの世界には酒は二十歳からなんて法律はないんだからいいじゃねえか。」


「そういうもんかな?でも僕は遠慮しとくよ。」


 樹神は冷蔵庫の中をさらに探り、中から缶に入ったブドウ味の炭酸ジュースを取り出すと、それを数渡に投げてよこした。数渡が礼を言ってから蓋を開けると、ぷしゅっと爽快な音を立てた。


「久しぶりの再会に乾杯しようぜ。」


 そう言って樹神は持っている缶ビールを掲げた。数渡も笑顔で自分の缶ジュース掲げて乾杯した。

 樹神はベッドに腰かけ、手に持っている缶ビールをぐいっと飲んでから語り始めた。


「おれがここに来たのは二か月ぐらい前になるかな。人生に絶望してよ、気づいたらここにいたんだ。」


 急な重い話に数渡は驚き、樹神の方を見た。人生に絶望?一体どうして?


「なあ、おれの将来の夢、お前に話したことあったっけ?」


「サッカー選手。」


 数渡ははっきりと覚えていた。一緒に遊ぶたびに、樹神はサッカー選手になるんだと豪語していたような気がする。


「そんな下らない事、覚えててくれてうれしいよ。おれがサッカー選手になりたいって思ったのはさ、おれがまだちっさいころ、幼稚園ぐらいの頃かな。テレビでワールドカップ見ててさ。あれは夜の十時頃だったかな。ガキにしてみりゃ遅い時間帯だよ。日本選手のミドルシュートが相手ゴールに決まったんだ。まるでボールが吸い込まれていくみたいにスーッと。後にも先にもあんなに鳥肌が立ったことはない。」


 数渡は黙って樹神の話を聞いていた。数渡はあまりサッカーに興味はなかったが、それでもワールドカップのゴールシーンで感動した経験はあった。きっとサッカー少年である樹神の当時の感動は、自分のそれとは比べ物にならなかったことだろう。


「それから必死に練習したよ。その選手みたいになりたくて。親父も巻き込んで必死に練習した。そのおかげで小1に上がる頃には県で有名なクラブチームに入ることができた。」


 そのことも数渡ははっきりと覚えていた。小一の頃の数渡の学年ではそこそこ有名な話だった。


「でも現実は甘くなかった。実力が追いつかなかったとか、そんなよくある話じゃない。そうだな。変な言い方だが、おれの運命がサッカーをする事を阻んだんだ。おれは二度とサッカーはできない。」


 樹神の声のトーンは暗く、悲しみを孕んだものへと変わった。その眼差しは当初の事を思い出しているのか、影が差し、淀んでいる。


「なあ、数渡。おれが小一の時骨折して入院したのを覚えてるか?お前何度も見舞いに来てくれたよな?」


 数渡はそれを聞いてぎくりとした。見舞いに何度も行っていたのには別の理由がある。


「ああ、覚えてるよ。」


数渡はぎこちなく答える。


「あの骨折さ、別に転んだわけでもないし、サッカーでへましたわけでもないんだ。突然折れたんだよ。」


「突然折れた?」


数渡は樹神に聞き返した。そんなことがあるだろうか?


「病気だったんだよ。」


 樹神がそう言った瞬間だった。数渡は何かがぽきっと折れるような音を耳にしたような気がした。それは非常に脆いものが無慈悲に折られたような、そんな音だった。


「ガキの頃は医者の話なんてさっぱり分かんなかったけど、あとになって自分の人生を狂わせた奴の正体を躍起になって調べたよ。おれの足の骨に腫瘍が出来てたんだ。まあ、いわゆるガンってやつだな。しかも骨のガンってのはすげえ稀にしか起きないらしいぜ。運が悪いどころの話じゃないぜ。」


 樹神は弱弱しく笑った。大柄な男が見せるその表情に、数渡は胸に針を刺されるような思いがした。


「その時は無事退院できた。大分遅れを取っちまったが、まだサッカーができる希望も残ってた。そういやお前が引っ越しちまったのはちょうどその時だったな。あの時のお前、ちょっとよそよそしかったじゃないか。」


 樹神の言葉に数渡は胸が苦しくなった。まさか樹神の骨折がそんなに大変なものだったなんて、当時の数渡は知る由もなかった。ただ、随分長いこと入院しているのだな、という印象を持っただけだ。それに当時の数渡は、父親が突然いなくなってしまったことに折り合いをつけることで必死だった。確かその年は日本列島も地震やら豪雨やら色んな災害が起きて大変な年だったと数渡は記憶している。


「まあ、そんなことはいいや。おれが絶望したのはその後だ。」


 樹神は持っていた缶を軽く振って中身が殻になったことを確かめると、立ち上がって冷蔵庫から二本目を取り出した。


「小3の時に二度目の入院をした。ガンがおれの肺に転移したんだ。つくづく運がないと思ったよ。クラブチームでも苦しい時期だった。入会してすぐブランクを持っちまったおれは、小3の時点でまだ周りに追いつくことが出来てなかった。」


樹神は新しく開けた缶ビールを一口飲むと続けた。


「二度目の入院はさすがに応えた。お前みたいに何度も見舞いに来てくれるやつもいなかったしな。早く治してサッカーしたいって、毎日そればっかり考えてた。だけどおれの運命ってやつはつくづくサッカー選手とは縁遠いところにあったらしい。ガンの治療の結果おれは肺に後遺症を患った。もうサッカーはできない。それでもおれは全力を尽くしてくれた医者を恨んだりはしなかった。おれなんかのために治療費を出してくれた親にも感謝してた。」


 その言葉とは裏腹に樹神の語気は段々と強くなっていった。眼光には怒りの色が見てとれる。


「だけどおれはサッカー選手になりたかったんだよ。ガキの頃、病気になる前は本気でなれると思ってた。入院した後も、もう本気でスポーツをできないって聞かされるまではその夢を諦めたことはなかった。夢をかなえるためだったらどんな努力だって厭わないつもりだった。それなのにおれは挑戦権さえもらえなかった。恨んだよ。誰を恨めばいいのかも分からなかったから、こんな風になっちまった自分の運命を恨んだ。」


 樹神の語る声からはいつしか怒りの感情が消えていた。それは途中悲しみに変わり、最後には諦念の情になっていた。今までこれと言った夢も目標も持たずに生きてきた数渡には樹神に掛けるべき言葉が見つからなかった。ただただ旧友の話を聞いて、不憫に思うことしかできなかった。


「そっからのおれの人生は暗くなる一方だった。中学の時は悪い仲間とつるんだりもしたな。勉強だけは陰で真面目にやってたから、高校はそこそこのところに行けた。けどある日、おれは同級生を殴った。サッカー部の奴だった。別にそいつが何かしたとか、そういうわけじゃないんだ。ただ、放課後のサッカー部の練習を見てたら、どうにも本気でやってる奴なんて一人もいないように見えたんだ。だからってそいつを殴っていいことにはならないのは分かってた。だけどその時のおれは、自分の内側から突然あふれ出てきた感情を誰かにぶつけないと、どうにかなりそうだった。」


 数渡は時々缶ジュースに口をつけながら黙って聞いていた。今までただ不憫だった旧友がとにかくするうちに加害者へと変貌した。


「おれは一週間の停学をくらった。その間、おれは何もすることなくただ絶望の淵にいたよ。それまでも絶望することはあったけど、今度のは全く別物だった。他の何かにじゃなく自分自身に絶望したんだからな。今思い返してみても、おれの行った暴行は正気の沙汰じゃなかった。とにかく人の目に着くのが怖くてカーテンも閉め切って自室に籠った。そうして一日、二日、三日と時間が経った。いや、本当のところは何日経ったのかよく分からない。気付くとおれの部屋に見たこともねえガキが立ってた。どうやっておれの部屋に入ったかは分からねえ。常に薄気味悪い作り笑いを浮かべてた。その気味の悪いガキはおれに訊いたよ。数学は嫌いか、と。訳が分からなかった。そっからの事はよく覚えてねえ。気付いたらここにいた。ひたすら〔数の化身〕と闘うだけのこの「箱」の中に。」

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