第6話 神は数学者であり、高度な数学で宇宙を構成した9

 三度目に訪れた「空間座標」は前回までと「何か」が違っていた。


 その違いは表面上のものではなく、視認することはできない。前回と同じように数渡は白い空間に浮かんでいたし、赤く輝くポールも変わらぬ形で存在していた。しかし、その空間内には面妖な邪気のようなものが漂っていた。そしてそれは明らかに数渡の背後から発せられていた。数渡は心臓を凍らされたような思いがして、後ろを振り返った。


 目がそこに釘付けになる。それはおおよそ生物とは言い難い物体だった。全体的に見ると正三角錐型をしており、中央に大きく真っ黒な穴が開いている。ブラックホールのようだ。よく目を凝らしてみると、そこに存在する三角錐型の物体は、全く同じ形をした小さな正三角錐型のブロックの集合体だった。物体を形作る小さなブロックは絶えずブラックホールの中へと吸収されており、新しいブロックがその物体のどこかから絶えず生まれ出ていた。そのため、物体全体が脈動しているように見える。ずっと眺めていると引き込まれそうな気持ちになる。


 しかし、数渡はずっと眺めていることはできなかった。おおよそ生物と呼べるかも怪しいその「数の化身」から明らかな殺気を感じたからだ。数渡は迷うことなく先ほど出した答えを口にした。


「0・63」


 それは数渡が答えを発したその瞬間の事だった。「数の化身」は数渡のすぐ右隣まで距離を詰めた。人間の目にはほとんど捉えることのできない速さだ。数渡は「数の化身」を見てぎょっとする。


 自分の右腕が気づかぬうちにブラックホールのような穴の中に引き込まれている。全力で引き抜こうとしても、全く抜ける気配がない。「数の化身」の体を形成している小さな三角錐型のブロックがブラックホールのような穴に引き込まれていくのと同時に、数渡の腕もそれに巻き込まれ、ブロックに潰されながら千切れていく。  


「0・63!0・63!レイテンロクサアアアアア・・・」


 数渡は答えを叫び続けていたが、最後の方は意味のない叫びに変わっていた。右腕が完全に千切れると、数渡はブラックホールから解放された。溢れ出る大量の血を押さえながら、数渡は走った。いや、走ろうとして空を蹴った。逃げなければ。とにかく遠くへ。だが、数渡は前に進むことができなかった。左足が動かない。見ると数渡の左足首から先はもうすでに「数の化身」にブラックホールに中に引きずり込まれていた。


「やめろ・・・」


 数渡は懇願するように言ったが「数の化身」の体のブロックは動きを止める様子がない。

 次の瞬間には、数渡の左足首から下を粉砕し始めていた。あまりの痛みに再び絶叫する。ああ、終わった。自分は問題を解き間違えたのだ。一体どこでどう間違えたのか。痛みで思考がぐちゃぐちゃになる。「数の化身」はその身体を大きく拡張させ、悶える数渡の下半身を丸ごと飲み込んだ。違う、間違ってなかったはずだ。自分は加納が言っていた公式に正しく数を当てはめて計算したはずだ。


 Ⅾ=log n m 


nには元の図形と相似な図形の数が、mには等分割した数が入る、と加納は言っていた。  


 あれ、加納は本当にそんな風に言ってたっけ?数渡は次の瞬間、自分の体が数多のブロックによって潰されていく音を聞いた。



 見るとそこには二本の腕があった。体を起こしてみて、それが自分の腕であることに数渡は気付く。気付かぬうちに机の上で眠ってしまったのだ。体の下からは中野に渡されたプリントと白紙のルーズリーフが出てくる。やれやれと思いながら数渡は机の上に置いてあった眼鏡を掛け直す。


 ここで数渡はあれ、と思う。眼鏡を外していたという事は、もともと自分は眠るつもりだったんじゃないか。そう思い、再びやれやれと思う。教室の中は随分と薄暗かった。窓の外を見ると遠くの地平線に太陽が沈もうとしている。ひんやりと涼しい風が入ってきて数渡の髪をそっと撫でる。数渡は穏やかな気持ちになった。こんな気持ちになったのは久しぶりなような気がする。

 しばらくの間、窓の外をぼんやりと眺めていたが、教室の中にいるもう一人の存在に数渡はふと気付いた。視界は薄暗かったが、数渡には少し離れたところで佇んでいるその少女が誰なのかすぐに分かった。というのも、こんなに美しくて、不思議な雰囲気をまとった少女を数渡は一人しか知らなかったからだ。マスはいつも通り無表情のまま、そっと数渡を見つめている。


「やあ、マス。久しぶりだね。」


 数渡はマスに会えたのがうれしくてつい高揚気味に言った。胸の鼓動が少しだけ早くなった。


「久しぶりね。」


 マスの抑揚のない返事が返ってくる。数渡はマスの答えを聞いて、違和感を覚えた。数渡はマスと出会っていろいろな事が起こり、マスに会うのが久しぶりだと感じたが、実際は昨日会っている。昨日の帰り道、偶然にも一緒だったはずだ。それで一緒に電車に乗って・・・。あれ、なんで電車に乗ったんだっけ?電車に乗った後はどうしたんだっけ?

 数渡はそこから先の記憶をうまく思い出すことができなかった。まるで昨晩見た夢を思い出すことができない時のような感覚だ。数渡は記憶を探るのを諦めてマスの方を見た。ずっと会いたいと、話したいと思っていたが、いざマスを目の前にすると碌な言葉が浮かんでこない。


「帰らないのかい?」


結局考えあぐねて出てきた言葉はそれしかなかった。


「私は帰ることは出来ない。」


マスはそういうと黒く澄んだ瞳を数渡の方に向けた。マスの言ったことに数渡は首をかしげる。


「先生に用事があるとか?」


 マスはその質問には答えなかった。まるで自分とマスの間に見えない壁ができてしまったようだ。マスは無表情のままゆっくりと窓の方へと歩き出す。再び涼しい風が吹いて、マスの美しい髪を揺らした。亜麻色の髪は夕暮れ時の髪と同化して、その色を判別することは難しい。マスは右手で乱れた前髪を直しながら窓の外を眺めた。なんて綺麗な横顔だろうか。数渡の頭にはそれ以上の言葉が浮かんでこなかった。こうやってそばで見ているだけで充分だ。それ以上何も望まないから、この時間ができるだけ長く続いてほしい。数渡のそんな思いを遮るように、マスは窓の外を見たまま口を開いた。


「問題を解いて。」


 数渡は始め困惑したが、その問題というのが自分の補習のために与えられた問題の事だと気づくと、心の中に期待が膨らんだ。


「ひょっとして、終わるの待っててくれてる?」


 一拍の間をおいて答えが返っていた。


「ええ。」


 その返事を聞いて数渡の胸の鼓動はさらに早くなった。嬉しさで舞い踊り出したくなる。早く課題を片付けよう。出来るだけ早く。そしたらマスと一緒に帰れるんだ。


「早くしないと、間に合わなくなってしまう。」


抑揚のない声が言った。数渡の心の中で全ての喜びが疑問へと変わった。


「間に合わなくなる?何に?」


 風が吹いた。さっきよりも強い、夜の訪れを知らせる風だ。地平線の太陽はその姿を完全に隠し、白色の光をただ一筋残すのみとなっていた。マスがゆっくりと数渡の方を向く。


「ごめんなさい。」


 マスと視線がぶつかった時、数渡は戦慄した。記憶が数渡の頭の中を駆け巡る。耳の奥で、自分の体が潰されていくような音が聞こえた。鼻の奥では、鉄の匂いがする。目の奥で蜘蛛のような生き物の大きな瞳が蘇る。その全てが、マスの澄んだ瞳の奥底に隠されていたかのように。

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