第7話 数学者は二つの異なった世界に住んでいる1


 目を覚ますと、そこは数渡に用意された「〇八一号室」とは別の部屋のベッドの上だった。


 一面漆黒の大理石で出来ていることに変わりはないのだが、「〇八一号室」よりも大きな部屋で、数渡が横になっているベッドの他にも何台か寝具が置いてある。その上で眠っている人も何人か見受けられた。数渡は自分のいる部屋が病室であると感じた。自分が知っている病室よりも随分と薄暗いが、寝台の配置や部屋の空気感からそこはかとなく病室の感じがする。


 数渡はずっと昔に病室を訪れた時のことを思い出した。仲の良かった友達が足の骨を折って入院した時、何度か見舞いに訪れたことがある。たしかあれはまだ引っ越す前の事、まだ父が居なくなってしまう前の事だ。引っ越してしまってからはその友達とは一度として連絡を取っていない。今はどうしているのだろうか。旧友の名は樹神証と言った。小さいころは下の名前で呼ぶのが照れ臭かったので数渡は彼の事を「樹神くん」と呼んだ。数渡が知っている樹神は万能な人間だった。幼いながらレベルの高いサッカーチームに所属していたし、頭もよく、クラスでは常に会話の中心にいた。いま思い出してみてもなぜ自分のような人間と樹神が仲良くしていたのかよく分からない。


 そうは言ってもたかだか小学一年生の頃の記憶である。今は彼がどうなっているのか皆目見当もつかない。数渡は樹神の記憶と共にふと甘酸っぱい記憶が蘇ってくるのを感じた。あれは樹神の病室での事だ。樹神の隣のベッドでいつも女の子が本を読んでいた。歳は数渡と同じぐらいだったろう。少し長めの黒髪を持つ綺麗な女の子だった。今では顔もよく思い出せないが、当時はその子を一目見たくて何度も病室に足を運んだ。樹神には悪いが、彼が退院して病室に行く理由がなくなった時、少しがっかりしたのを覚えている。今思うと人として最低だが、残念ながら当時の本心である。その女の子について樹神と話したこともある。樹神は病室が同じという事もあって、その女の子と会話をすることもあったそうだ。嬉しそうに彼女の話をする樹神の事を当時の数渡は大層うらやましく思った。多分樹神も彼女に気が合ったのだろう。


 病室の扉が開く音によって、数渡の回想は途切れた。中に入って来たのは明だった。白のシャツに黒のパンツ、スニーカーという姿だ。前髪はピンクのカチューシャで上げられ、綺麗な額が顕わになっている。明は数渡の姿を見て歩みを止めた。明の大きな瞳がさらに大きく見開く。


「数渡・・・くん?」


「やあ、明。」


 数渡は明が何をそんなに驚いているのか分からず、曖昧な愛想笑いを浮かべた。次の瞬間、明は数渡に駆け寄り、数渡の体を力強く抱きしめた。女性にハグされたことなどない数渡は頭を混乱させながらも明の体を支えた。明の体温が伝わってくる。ついでに胸の感触も。


「数渡君、よかった・・よかったあ。」


 数渡が驚くのも構わず、明は数渡の肩に顔をうずめてボロボロ涙を流した。

 明が落ち着きを取り戻してから話を聞くと、明がどうしてこんな態度をとったのかが分かった。自分は何日もの間昏睡状態にあったらしい。原因は自分が「オーダー」で問題を解いている時に何者かがフルフェースとタブレットをつないでいるコードを引き抜いたからだという。明が言うには、通常「オーダー」を使用中に何らかの原因で接続が途切れると、使用中の人間は脳に甚大なダメージを受け、寝たきりになってしまうケースが多いのだそうだ。つまり、自分は幸運に幸運が重ねり、何とか命を留めている状態にあったのだ。その事実は数渡を震撼させた。


「でも誰かがコードを引き抜いてくれてよかったよ。危うく体が潰されるとこだった。」


 数渡は笑ってそう言ったが、寝具の前の椅子に座っている明は俯いたまま体を震わせていた。再び溢れ出そうとする涙をこらえているようだ。やがて明は俯いたまま小さくいった。


「遠くに行かないって、約束したのに。」


 数渡ははっとした。明はあの夜の事を覚えているのだ。あの時の明は相当酔っていたので、てっきり忘れてしまっているものと思っていた。


「ごめん。」


数渡は俯きながらそう言った。


「数渡君はもう〔オーダー〕で問題を解いちゃダメ。」


 そう言われて、数渡は視線を上げた。明の視線とぶつかる。明の目は真剣だった。真剣に数渡の身を案じていた。確かに明の言う通りだ。これ以上危険を冒してまで「オーダー」で問題を解くのはばかげている。それは分かっているのに、どうしてか数渡には納得できなかった。その時の数渡には「オーダー」で問題を解くことはとても重要なことのように思われた。「オーダー」で問題を解き続けることで、自分が忌避し続けていた数学を克服できるかもしれないと考えていたのだ。それは数渡にとってとても重要なことだ。長く忌み嫌ってきた数学を乗り越えた先には、自分の運命を決定づける「何か」があるような気がしていた。そう、そこには「何か」があるのだ。その「何か」を持っていれば、父は失踪しなかったかもしれない。旧友の樹神をうらやましいと思ったりしなかったかも。明の事ももっと理解してあげられるかもしれない。あるいはマスにもっと近づけるかもしれない。


「お願いだから、もう、やめて。」


 数渡の浅はかな思いは明の一言で崩れていった。


「分かったよ。」


数渡は俯きながら力なくいった。

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