第6話 神は数学者であり、高度な数学で宇宙を構成した8
数渡は「〇八一号室」のベッドの上で目を覚ました。明と別れてからどれぐらいの時間が経っただろうか。枕元に置いておいた腕時計は八時を指していた。随分と長い間眠ってしまったようだ。数渡はとりあえずシャワーを浴びて、着替えてから部屋の外の様子を窺った。静かだ。廊下には人影一つ見当たらない。みんな夕食にでも出かけているのだろうか。数渡はお腹もすいていなかったし、かといって再び眠る気にもなれなかった。頭はすっかり冴えてしまっている。
コップに一杯水を汲み、のどを潤してから数渡は机に向かった。本棚から数学の問題集のような本を取り出して、試しに何問か解いてみる。二次関数の問題、等比数列の問題、確率変数の問題。解いてはみるが、それだけだった。何の達成感も満足感も得られない。なぜだろうか。おそらく「オーダー」で解いた問題よりも難しい問題のはずなのに全く刺激が乏しかった。数渡の鼻の奥で、わずかに鉄の匂いがしたような気がした。美しい「数の化身」が光の粒となって消えていく光景が蘇る。心臓が高鳴るのを感じる。
気づいたら数渡は「オーダー」の部屋の入口に立っていた。部屋の中にも人影は見当たらない。それはまるで真っ暗な洞窟を前にして立っているかのような、そんな感じだった。洞窟の中には「何か」があった。しかし、それが何なのか入口からは確認することができない。数渡は「何か」の正体を知りたいと思ったし、知らなければならないとも思った。おもむろに、部屋の中へと一歩踏み出す。まるで面妖な力に引きずり込まれたかのように。数渡は迷うことなく今朝と同じ席へと歩いていき、椅子に座った。「オーダー」をセットして、タブレットに表示された問題文を見る。
その時、数渡は初めて自分が取り返しのつかない事をしてしまったことに気づいた。
問題
三角形aがある。このaから各辺の中点をつないでできる正三角形を取り除いた図形をbとする。bには元の三角形の4分の1の面積を持つ正三角形が三つできる。さらにこの3つの三角形に同じ操作をした図形をcとする。この図形のフラクタル次元を求めよ。(少数第三位以下は切り捨てる)
数渡は絶望で手が震えた。フラクタル次元。フラクタル次元だって?
その言葉には聞き覚えがあった。それもごく最近だ。数渡は必死に頭の中の絡まった記憶の糸を解こうとした。そして一人の男性の姿が浮かんだ。どこにでもいそうな服装をした盲目の男だ。そうだ、今朝加納が延々と話をしていた中に確かそんな単語があった。まさか下らないと思っていたおっさんの話が自分の生死を分けるなんて。数渡は加納の言葉をなんとか思い出そうとしたが、その記憶はあまりに曖昧だった。こんな事なら真剣に話を聞いておくべきだった。周りを見渡すが依然として人影は見当たらない。駄目だ、もう後には引けない。問題を解くしかない。
数渡は一度深呼吸をして問題と向き合った。まずはいつも通り丁寧に図形を書く。図形を書いていると、加納の言っていた言葉が断片的にだが頭の中に浮かび上がってきた。
フラクタルというのは微小な部分をとっても全体に相似している図形のことだよ。
実際に書いてみるとその意味が分かった。最初一つの正三角形だったものが、問題のとおりに一回操作すると3つの正三角形に、二回目では9つになった。当然ながらその図形の全体像は一つの正三角形のままである。しかし数渡は肝心なところに辿り着けないままでいた。加納は確かフラクタル次元の解法についても言及していたはずだ。どれだけ記憶の糸をたどっても、加納が言っていたことを思い出せない。数渡は諦念の情が渦を巻いて上ってくるのを感じた。
もし、このまま問題を解かないでいたらどうなるのだろう。誰かに発見されるまでここでじっとしていてはどうか。明だったらもしかしたら助けてくれるかもしれない。数渡は情けない気持ちになった。一人でここに来たのに、気づいたら明に助けを求めている。それにこの「オーダー」という装置は自分を待ってくれるほど甘いものではないような気がした。いっそのこと被っているフルフェースを脱ぎ捨ててしまうことも考えたが、それもまたまずいことのように思われた。数渡は一番初めに「オーダー」を使った時、フルフェースを途中で脱ごうとしてマスに止められたのを思い出した。確かマスはフルフェースを脱ぐと、「オーダー」の電源が落ちる、と言っていた。では「オーダー」の電源が落ちたらどうなるのだろうか。何にしてもそれは本当に打つ手がなくなった時の最終手段のような気がする。
D=log n m
数渡は不意に思い出した。そうだ、フラクタル次元を求める公式はⅮ=log n mだ。加納への感謝の念が溢れる。これをきっかけに加納の言葉が次々と思い出された。nには元の図形と相似な図形の数が、mには等分割した数が入る。数渡の胸が高鳴った。解ける、解けるぞ。
0,63
それが数渡の出した答えだった。0・63次元というのを数渡は想像できなかったが答えに自信はあった。公式に何度当てはめてみても答えは変わらない。数渡は大きく深呼吸してから「オーダー」のボタンを押した。
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