第6話 神は数学者であり、高度な数学で宇宙を構成した7
数渡が目を開けると、明の心配そうな顔がそこにはあった。あんなに笑顔で送り出してくれていたのに、内心明も不安だったことがその表情から読み取れた。数渡が少し体を動かすと、明は満面の笑みを浮かべた。
「おかえり、数渡君」
「ああ、ただいま。」
数渡はフルフェースを外しながら言う。それから両手のこぶしを突き上げて大きく伸びをした。ひどく疲れたような気がする。
「大丈夫?向こうでひどい目に合わなかった?」
明は笑顔を作りながらも、その目には心配そうな色を残していた。
「ああ、平気だ。」
数渡は答えた。少し目と鼻から血が止まらなくなっただけだ。鉄の匂いは未だに数渡の鼻に染みついていた。実際はもう鉄の匂いなどしないはずなのだが、それでも脳がそれを記憶している。「空間座標」で起きたことを思い出し、宙をにらみつけていると、明がまた不安そうな顔でこちらを見た。
「ねえ本当に大丈夫?気分が悪くなったりしてない?」
「大丈夫だよ。全部明の言う通りだった。証明の答えだってスラスラ出てきたよ。」
「そっか、だったらいいんだけど。」
それから明は元気を取り戻したように、はきはきとした声で数渡に尋ねた。
「ねえ、〔オーダー〕で問題を解いてみてどうだった?知りたいことは知れたかい?」
「そうだな、特に何か知れたわけじゃないけど、でも悪くない気分だよ。」
そう、悪くない気分だった。自分の力で忌避していたものと向き合った。自分の力で苦手なものを克服したのだ。悪くない気分?いや、むしろ最高な気分だ。
「いや、むしろ最高な気分だ。」
数渡は自分の思いをそのまま口に出していた。明は数渡の言葉を聞いて嬉しそうに笑った。
「そうでしょ?これで数渡君の数学嫌いも少しは直るかな?」
「どうかな。でもまた問題を解いてみてもいいかなって思うよ。」
数渡は笑顔で言った。
「ふふ、だったら私たち、最高にして、本当のパートナーになれるかもね。」
それから数渡は明と共に今朝と同じレストランで食事を共にした。明は午前中の時点ですでに膨大な量の問題を解いていたが、食事を終えた後からもまたオーダーの部屋に戻って問題を解くのだという。出来れば一緒に行きたいと数渡は思ったが、抗いがたい疲労感がそれを阻んだ。
「無理しない方がいいよ。慣れないうちから使いすぎると体に負担がかかるから。」
明は運ばれてきたマルゲリータをほおばりながら言った。
「明は大丈夫なの?」
数渡はカルボナーラにフォークを巻き付けながら尋ねる。
「私は慣れてるもん。」
そう言われて数渡はそれ以上詮索しないでおこうと思った。しかし二人の間に一度沈黙が訪れると数渡は明の考えていることを聞かずにはいられなかった。
「明はどうしてそんなにたくさん問題を解こうとするんだ。やっぱり世界を救うため?」
明は食事の手を止めて、少しの間考え込んだ。明が考えているのは、問いに対しての答えを探しているのではなく、ある種の選別を行っているように数渡には思えた。話しても良いことと、話してはいけない事の選別だ。明の事は信じているが、彼女の事を理解するにはまだ「力」が足りていないように数渡には思われた。この「力」というのが何なのか、はっきりとした定義はない。だが数渡は明の事を理解するために自分には足りていない「何か」があるという事だけは痛切に感じていた。
「うーん、世界を救ってるっていう実感はあんまりないかなあ。やっぱり楽しいからかな。数学の問題を解くのが。」
そう言うと明はクスクスと笑った。一方の数渡は全く理解できないという顔をした。
「楽しい、数学が?」
「そんな顔しないでよ。世の中には本当に数学の問題を解くことが楽しいと思ってる人もいるんだよ。」
明は数渡の顔を見て言う。それでも表情を変える事のない数渡を見て、明は小さくため息をついた。
「そうだね、たしかに私が問題を解き続けてるのには別の理由がある。」
「別の理由?」
数渡は躊躇しつつも、
「その理由は聞いてもいいのかな?」
と続けた。
「別に隠すつもりは無いよ。数渡君がこれを聞いてどう思うかは分からないけど。」
明はそう言うと次の言葉を選ぶように少しの間を置いた。
「敵討ちって言うのかな。他にいい表現が思い浮かばないや。」
「敵討ちっていうのはつまり・・・」
「そう、私と仲が良かった人たちが解けなかった問題が結構残っててさ。私が解こうって思ってるんだ。〔オーダー〕って問題はランダムで出題してくるんだけど、時々誰かが正解に辿り着けなかった問題も出てくるんだって。」
「じゃあ、明はその問題が出題されるまでずっと問題を解き続けるっていうのか。」
「うん、そうだよ。復讐ならぬ復習ってね。」
明はそう言って笑うが、数渡には笑えなかった。やはり聞くべきではなかった。明はいつもその名前の如く明るく常に笑顔を絶やさないが、おそらく本質的には感情を隠すのが下手な人間なのだ。本当に感情を隠したければ周りにもっと無関心でいるべきだ。そして平静を装う。自分すらもだますように。明が内心どう思っているかは、目を見ればなんとなく分かる。悲しいときは悲しい光を瞳に宿す。それは時に周りの空気感さえも変えてしまうのだ。今もまた、彼女を取り巻く空気が急に悲しみを帯びた。それは短い冬の時期の黄昏時のように、気づいた時にはすでに肌で感じるほどはっきりと変わってしまっているのだ。それはきっと明が造り出したものではなく、彼女が背負う運命がそうさせているのだろう。数渡の頭の中には明に対して更なる疑問がわいてきた。明が仲の良かった人についての事だ。
しかし、それは数渡ののどにたどり着くまでもなく、どっしりと重い気の塊となって体の中を落ちていった。自分にこれ以上明を知ることは許されないように数渡には感じた。理由は簡単だ。「力」がないからだ。この「力」というのが何なのかさえ自分には分からない。テーブルの上のパスタはすっかり冷めてしまっていた。
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