第6話 神は数学者であり、高度な数学で宇宙を構成した6
目を開けると真っ白い空間が広がっていた。今まで座っていた椅子も問題を解いていた机もオーダー一式も足をつけていた地面さえも消え失せている。数渡は宙に浮いた状態で周りを見回し、自分が「空間座標」に移動したことを確認した。やはりどこまでも長く伸びる赤いポールの輝きが、がんと目に入ってくる。縦に長い、y軸を表すポールだ。y軸と垂直に交わり合う残りの二本のポールは数渡の遥か下方に見受けられた。
数渡は落ち着いていた。明の言ったことは本当だった、と数渡は思った。先ほど解いた問題の答えは鮮明に数渡の頭の中に残っている。数渡が視線を上げると、探していたそれは居た。小さめのドラゴン、もしくは長い尻尾を持った妖精を想起させる生き物だ。その胴体に手足はなく、肉がついておらず白い骨で出来ていた。なん十対もの肋骨が露わになっている。唯一肉がついていると思われるのは背から生える白い羽だ。その美しい羽は天使をも想起させる。そして何より印象的なのは頭部だ。頭部と骨の胴体は短く細い頸椎によって繋がっている。頭部の位置に見受けられるのは立方体だった。目や耳、鼻に該当するものは見受けられず、無色で半透明だ。美しい生き物だと数渡は思った。しばらく見惚れてしまうほど、綺麗で犯しがたい生き物だ。
「数の化身」もまた数渡の様子を窺っていた。表情のない頭部からは敵意を持っているのかさえも読み取れない。しかし、それは次の瞬間はっきりした。「数の化身」は白い羽を僅かに動かすと、その身体から金属音のような不快な音を発した。数渡は慌てて耳を塞ぐ。頭に、いや正確には脳に衝撃が走った。数渡は不快感に顔をしかめる。不意に鼻の奥に違和感を覚え、中からどろっとした液体が流れ出すのを感じ、手で押さえる。数渡はぎょっとした。血だ。押さえた手は暗褐色に染まっていた。急がなければ。数渡は流れ出る鼻血を無視して、頭の中にある答えを大きな声でゆっくりと読み上げた。「数の化身」が不意に動きを止める。
「ベクトルAB=ベクトルb、ベクトルAD=ベクトルd、ベクトルAE=ベクトルeとする。pは三角形BDEの重心であるから、ベクトルAM=ベクトルAB+ベクトルAD+ベクトルAE/3=1/3(ベクトルb+ベクトルd+ベクトルe)これを1の式とする。」
視界が赤くなり始める。鼻だけでなく目からも暗褐色をした血液が流れ始める。あまりの鉄臭さに顔をしかめながらも、数渡は続けた。
「またベクトルAC=ベクトルAB+ベクトルAD=ベクトルb+ベクトルd、ベクトルAH=ベクトルAD+ベクトルAE=ベクトルd+ベクトルe、ベクトルAF=ベクトルAB+ベクトルAE=ベクトルb+ベクトルe。Nは三角形CHFの重心であるから、ベクトルAN=ベクトルAC+ベクトルAH+ベクトルAF/3=ベクトル2b+ベクトル2d+ベクトル2e/3=2/3(ベクトルb+ベクトルd+ベクトルe)これを2の式とする。」
赤黒い視界の中で、数渡は思い出していた。一向に手の届かなかった数学の問題の事を。数学担当の中野が、自分の理解が遅れていることを知りながら、クラスの前で問題の解説をする様に言ってきた時のことを。あるいはその時、自分の事を嘲笑していた隣の席の北沢の事を。
「さらにベクトルAG=ベクトルAB+ベクトルBC+ベクトルCG=ベクトルAD+ベクトルAE=ベクトルb+ベクトルd+ベクトルe。これを3の式とする。1、2の式からベクトルAN=2AP。1、3の式からベクトルAG=3ベクトルAM。」
明は何と言っていたっけ。
答えを言うときはゆっくり大きな声で、心を込めてね。
そうだ、しっかりと心を込めなければならない。一体どのような思いを込めればよいのだろう。しかし、数渡はすでにその答えを知っていた。いや、正確に言えばそれしか知らなかった。今まで自分は数学のせいでどれだけ惨めな思いをしただろうか。数渡は顔を血で染めながら、数学に対する今までの全ての憎しみを言葉にのせた。
「したがって4点A、M、N、Gは一直線上にある。」
その瞬間、歪んでいた空間が秩序を取り戻したような感覚がした。かみ合っていなかった歯車が回り始めたみたいに。あるいはジグソーパズルの最後のピースがぴたりとはまったみたいに。数渡は残された視界の中から、「数の化身」の最期を見ていた。小さなドラゴンの骨格のような体は散り散りになって消えていく。それは決しておぞましい光景ではなく、タンポポの綿毛が空に舞って消えていくように、「数の化身」の体もまた光の粒となって舞い上がり、どこかへと消えていった。「数の化身」がその姿を完全に消し去る頃、数渡の意識もまた深い暗褐色の海の中へと消えていった。
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