第6話 神は数学者であり、高度な数学で宇宙を構成した5
「着いた。〔箱〕の中から外が見えるところってここしかないんだ。いつも曇ってるけどね。」
明の声にはっと我に帰り、数渡は眼前に広がる光景を見た。そこは広く開けた場所だった。天井がその空間だけすっぽりとなくなっており、鉛色の空が見える。広場全体は真四角をしており、広場のちょうど真ん中には、長方形の黒い石碑が建っている。
「空を久しぶりに見たような気がする。」
数渡はつぶやくようにそう言った。部屋の窓から外を見た時は白い靄のようなものがかかっていて空は見えなかった。数渡と明は、広場の中心の黒い石碑のある場所まで歩いて行った。近くまで来ると、広場にぽつんと立つ石碑は思ったよりも大きいことが分かった。二メートルほどの高さはあるだろうか。
Wir müssen wissen. Wir werden wissen.
石碑にはそう刻まれていた。ドイツ語だろうか。
「この文はどういう意味なの?」
たまらず数渡は聞いた。
「我々は知らなければならない。我々は知るだろう。ドイツの有名な数学者の言葉だって、加納先生が言ってたよ。」
我々は知らなければならない。我々は知るだろう。数渡は心の中で繰り返した。
「どういう意味だろう。」
先ほどと全く同じ質問だが、今度は石碑の文の本質を問う質問だ。明は考えるように少し間を置いてから口を開いた。
「分からない。だけど、私たちには知るべきことがあるって、そのままの意味じゃないかな。世の中の真実だったり、人が生きていく目的だったり・・・。」
涼しい風が吹いた。荒々しさも含んだ風だった。嵐の前に吹くような風だ。その風は数渡の中の何かを鼓舞するように、強く吹き抜けていった。それから、明は付け加えるように言った。
「もしかしたら、それは私たちの運命のことかもしれない。」
運命。自分の運命とは一体何だろうか。確かにそれはいずれ知るべきかもしれない。
私を造ってるのは、私なんだもん。
明の言葉と共に、再び夕暮れの教室に独りぼっちでいる自分の姿が蘇ってきた。数学を忌避してきた成れの果て。惨めで可哀そうだ。数学担当の中野が同情の目を向けるのも頷ける。
しかし、そんな姿になるように運命づけたのは一体誰であっただろうか?失踪した父だろうか?詳しいことを話してくれなかった母だろうか?あるいは周りの人間だろうか?違う。自分だ。苦手な数学。嫌いな数学。父の姿を思い起こさせる数学。そんな数学を勝手に避けてきたのは紛れもなく自分だ。逃げる選択をしてきたのは自分なんだ。このまま逃げ続けたら、自分はさらに惨めな運命を歩むことになるだろう。いや、逃げないという選択をしたとしても結果は同じかもしれない。運命を変えられないかもしれない。だが、それはどうしたら分かるだろうか?自分の辿った先にある運命を、今立っているこの場所から覗き見ることなんて不可能だ。それこそ、どんな数学の公式を使ったって分かりはしない。だったら挑んでみるしかない。全力で挑んでみるのだ。そう、命を懸けて。
「明、お願いがあるんだ。」
数渡は心の奥から忍び寄ってくる恐怖心を押し殺すように、力強い声で言った。
「うん、何?」
明は数渡を真剣な面持ちで見つめた。
「一緒に〔オーダー〕で問題を解いてほしいんだ。僕がもし答えを間違えそうになったら助けてほしい。」
席に座り、ターキーレッドのフルフェースを持ち上げた時、数渡はごくりとつばを飲み込んだ。黒い蜘蛛のような「数の化身」に襲われた時の記憶が、どっと押し寄せてくる。手が震え、頭には冷や汗が浮かぶ。
「大丈夫。どんな問題でも私が必ず解くから、心配しないで。」
数渡の様子を見て、明が励ますようにそう言った。数渡はその言葉に笑顔で答えようとするが、顔が引きつる。
「何言ってるんだ。僕が自力で解いてみせるさ。」
そう言うと、数渡は思い切ってフルフェースを被った。すぐにタブレットに問題が表示される。
問題
平行六面体ABCD∸EFGHで三角形BCD,三角形CHFの重心をそれぞれM,Nとするとき、4点A,M,N,Gが一直線上にあることを証明せよ
「あの、明、証明問題なんだけど、これは答えを全部言わないといけないのか?」
数渡は絶望の表情を浮かべながら明を見た。
「平気だよ。さあ、まずは問題を解くことに集中して。」
数渡は明に言われるがままルーズリーフにペンを走らせた。並行六面体、つまり全ての面が平行四辺形に囲まれた四角の立体の事だ。数渡は図形を丁寧に書いてから、問題文を吟味した。これはベクトルの問題だ。ベクトルとは向きと大きさを表す矢印の事だ。この手の問題を解くときの一般的な方法は、共線は実数倍になるという事を利用する。
つまり、4点A,M,N,Gが一直線上にあることを示すには、ベクトルAN=kベクトルAM、ベクトルAG=`kベクトルAMとなる実数kと`kを求めればいい。自分でも解くことのできる問題であると数渡は確信した。
マスと初めて出会い、真っ暗な空間に連れていかれてから数渡は変わった。数学の問題がスラスラ解けるようになった。まるで誰かの知識を借りて問題を解いているかのように。数渡が問題を解き終えると、明はルーズリーフに書かれた解答を確認し、大きくうなずいた。数渡はそこで問題を解く間ずっと気になっていたことを明に尋ねた。
「僕は〔数の化身〕に答えを全て言わないといけないのか?」
「そうだよ。一字一句間違えないようにね。」
「それは少し難易度が高いんじゃないか。それに答えを読み上げてる間に殺されちゃうよ。」
明は首を横に振る。
「大丈夫。奴らはそこまで無粋じゃないよ。それに数渡君も答えを忘れたりはしない。」
数渡は明の事を信じていた。明が大丈夫と断言するなら、大丈夫なのだろう。それでも念には念を入れ、答えをこれでもかというぐらい頭に叩き込んで、完全に暗唱できるようになるまで何度も声に出して読んだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫なのに。」
明は半ば呆れ気味に言う。そう言われても自分の命が懸かっているのだ。念を入れすぎるという事はないはずだ。数渡が答えを完全に暗記し、オーダーのボタンを押そうとした時、明が口を開いた。
「そうそう、これは先輩としてのアドバイスなんだけど、」
明はそう言うとフルフェース越しに数渡の目を見て笑顔を作った。
「大事なことを伝える時はゆっくり大きな声で、心を込めてね。真剣に伝えればきっと向こうも応えてくれるよ。」
そういうと明はウィンクした。数渡はそんな明をみて緊張感が抜けていくのを感じた。そうか、自分はこんなに緊張していたのか、と数渡は気付く。それから明に対してフルフェース越しににやりと笑って言った。
「ありがとう、先輩。」
カチッと言う音とともに数渡の意識は途絶えた。
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