第5話 万物の根源は数7


 明はカンパリオレンジというカクテルが気に入ったのか、その後も何杯も同じものを飲んだ。そのせいでバーを後にする時には足元がおぼつかず、呂律もかなり怪しくなっていた。


「部屋は三〇六号室です。あまりひどいようでしたらこれを飲ましてあげてください。」


 バーテンダーの男は数渡に水の入ったペットボトルを手渡して言った。数渡は礼を言ってそれを受け取り、隣で眠たそうにしている明に手を貸して立たせた。 


「それでは、明さんをよろしくお願いします。」そういうとバーテンダーの男は別れ際にウィンクした。


 数渡は「箱」と呼ばれるこの建物の事をまだよく把握していないせいで、あちこち右往左往する羽目になった。どこもかしこも漆黒の大理石で出来ているこの建物の中では、どこの通路も同じに見えてしまう。明は水を飲ませても一向に酔いが覚める様子がない。ようやく三〇〇番台の部屋を見つけた時には明は数渡の腕にしがみつき、ほとんど体重を数渡に預ける形になっていた。


 しかし、そうなると嫌でも明の豊かな胸の感触が数渡の腕に伝わってくる。今まで女性と二人で歩いたこともなかった数渡はどうしていいかわからず、自分の陰部が徐々に硬くなることも止められなかった。ようやく三〇六号室の前にたどり着くと、数渡は明に声をかけた。

「明、部屋に着いたよ。鍵はどこ?」


 とりあえず数渡は明を部屋の前の廊下に座らせた。明はよほど体調が悪いのか体を小さく丸めて顔を自分の膝にうずめた。数渡は多少の罪悪感を持ちつつも、明が持っていたポーチの中から鍵を探し出す。カチリ。明の部屋を開錠した時、数渡はふと思った。


 ひょっとしてこれは千載一遇のチャンスなのではないだろうか。自分の中の野心が暗闇から姿を現すのを数渡は感じた。廊下に自分と明以外に人影が見当たらないことが、数渡の野心をさらに助長させた。そうだ。こんなチャンス二度とはやってこない。あと一歩踏み出すだけだ、と現れた野心がささやく。心臓が奇妙な音を立てるのを数渡は必死で抑え、冷静さを保とうとした。そんなことをして本当に何も問題はないのだろうか、と自分に問う。本当に何も?自分はマスの事が好きなのに?数渡の中の野心と倫理感の間に、真っ向勝負のゴングが鳴り響いた時だった。


「数渡君・・・。」


 廊下で体を小さく丸めて座っていた明がか細く震えた声で言った。夢うつつといった感じだ。


「ずっと友達でいてね。遠くに行かないでね。」


 その言葉によって数渡の中の闘いは始まることなく終わりを迎えた。バーでの明の姿が数渡の頭に蘇る。寂しげにグラスを持つ、美しい姿。数渡は理解した。明はずっと闘ってきたのだ。三年もの間ずっと。大切な人を失いながら。


「明、聞こえる?」


数渡はゆっくりと言った。


「うん。」


明は顔をうずめたまま小さくうなずき、か細い声を出す。


「僕は何処にも行かないよ。遠くに行ったりしない。」


 明がゆっくりと顔を上げる。目元が少し赤くなっているのは、酔いのせいだろうか。


「約束だよ、数渡君」


「うん、約束だ。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る