第5話 万物の根源は数3

 すべての準備が整い、「整数論」といういかにもつまらなそうな本のページをめくっていると、コンコンと扉をノックする歯切れのよい音がした。


 扉を開けるとそこには明がたっていた。ついさっき会った明とはまるで別人のようだ。半袖のネイビーのワンピースに、銀のチョーカーをつけている。ボディラインがはっきりと分かる服装なだけに、豊かな胸に自然と視線が惹きつけられてしまう。目線もさっきより高くなっているような気がする。さっきまで履いていたスニーカーが、ハイヒールに変わったせいだろう。香水の匂いだろうか、フレッシュな柑橘類のような匂いがほんのりと香る。


 そういえば明の年齢を聞いていない。さっきまでは自分と同じかそれより下だろうと思っていたのだが、目の前の明は随分と大人びて見える。それだけに明の前髪をかき上げているピンク色のカチューシャは幼い子が付けるもののようで、少し違和感を覚えた。数渡がすっかり見惚れてしまっていると、明は少し恥ずかし気に口を開いた。


「待たせちゃってごめんね。」


「え、いや、全然気にしてないよ。僕こそごめんね。こんな味気ない服しかなくて。」


「ふふ、そんなことない。似合ってるよ。」


 明は笑顔でそう言ったが、無地の白シャツと黒のチノパン姿に似合うも何もないだろうと数渡は思った。明も、とても素敵だね。そんなきざな返しが思い浮かんだが、胸の上、のどの下辺りで言葉がつかえて、とても声になりそうもなかった。


「じゃあ、いこっか数渡君。」


明はそう言って歩きだした。



 明に案内されたのはカウンターバーが併設されたレストランだった。例によってすべてが研磨された大理石で出来ており、窓がないので薄暗かったが、視界に困らない程度に、ところどころキャンドルが灯されていた。他の客はまばらにしかいない、バーカウンターの奥では正装に身を包んだ男性バーテンダーが手慣れた手つきでシェイカーを振っている。店内にはどこからかジャズ音楽が流れ、おしゃれな空気感を漂わせていた。この建物の中に、こんな場所があるなんて驚きだ、と数渡は思った。


数渡は明に促されるまま、奥のテーブル席に向かい合わせに座った。場の雰囲気に緊張する数渡をよそ目に、明は少し高揚気味だった。


「何食べようっかなあ。」


 そう言いながらメニューを開いている。数渡もメニュー表を手に取って開いてみると、そこにはいかにも高そうな料理名がずらりと並んでいた。見たところフランス料理だろうか。ここで数渡は重大なことに気づく。そういえば自分は財布を持っていない。


 どうしてもっと早く気付かなかったのだろうか。財布はと言えば、学生カバンの中にある。そして学生カバンはというと、本屋の駐輪場に放置してきた自転車のかごの中だ。きっと戻ったら本屋の店員に怒られてしまうだろうな、数渡は頭の隅で考えた。そもそも財布があったとしても数渡が持っている程度のお金ではこの店の料理は到底支払うことはできないように思われた。何はともあれ、お金がないことを明に正直に言うしかない。


「ごめん、僕お金持ってないんだけど」


「何言ってるの?全部タダだよ?」

 明はメニューから顔を上げずさらりと言った。


「タダ?これが全部?」


数渡は驚いて聞き返す。


「そうだよ。」


明はメニューを決めるのに集中していて返答も雑だ。


「でもそれって・・・随分サービスがいいんだね。」


数渡が驚きを隠せないでいると、明は顔を上げて、少し真面目な顔をして言った。


「だって命かけてるんだもん。これぐらいのサービスはしてもらわないと。」


 その言葉に数渡は口をつぐむ他なかった。

 数渡はメニューから「特選黒毛和牛フィレ肉包み焼きウェリントン風」を選んだ。明もなんだか名前の長い料理を注文した。

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