第5話 万物の根源は数2
明の言う部屋というのは随分と簡素なものだった。オーダーのある部屋からまっすぐ廊下を歩いて来た所にあるその部屋は「〇八一号室」と番付されていた。
部屋の中は例によって、壁も床も天井も漆黒の大理石で出来ていたが、それを除けば普通のホテルの造りと大して変わらない。広さは六畳ぐらいだろうか。
入って真正面には、カーテン付きの窓、その真下には机と椅子。その横に本棚。壁際にはベッドとクローゼット。部屋の隅にはスタンド式の照明が置いてある。さらにトイレとバスルームも併設されていた。簡素な部屋だが人が住むのに不便はなさそうである。しかし問題は、ここが「数渡の部屋」だと明が言ったことである。ここが数渡の部屋であるという事は、少なくとも数日の間はここに住まなければならないという事である。
数渡は単純に帰りたかった。たとえ自分の部屋がこの部屋の何倍も汚れているといっても、たとえ同じ屋根の下に口うるさい母親が暮らしているとしても、数渡の中の帰属意識が帰りたいと言っていた。
しかし、自分にはその手段がない。明はというと、数渡をこの部屋に案内した後、自分も準備したいから部屋に戻ると言って早々に立ち去っていった。一時間後に迎えに来るそうだ。
一人になるとどっと疲れがこみ上げて来て、たまらずベッドにダイブした。一時間後。そういえば今は何時なのだろうか?この部屋には時計が見当たらない。数渡は自分の腕時計を確認して驚いた。短い針が8を指している。それなのに、窓から入る光は一向に明るいままである。
一体この世界はどうなっているのだろうか。そういえば、母親に一報入れておかなければならない、と数渡は思った。数渡はズボンのポケットからスマホを取り出して画面をのぞき込む。しかしどれだけ操作しようとしてみてもスマホの画面は真っ黒で、液晶画面に自分の顔が映りこむばかりだ。電池切れだろうか。数渡は充電器を持っていなかったので、こうなってはスマホもただの金属の塊だ。
数渡はあきらめてスマホをしまってから、今日一日の事を振り返ってみた。本屋の前でマスを見かけ、駅まで追いかけたこと。電車の中でのマスとの会話。真っ黒な空間を通ってこの建物に来たこと。加納という盲目の男性。フルフェースを被り机に向かう人たち。数学の問題。まるで三次元の空間座標を表しているかのような、三本の赤く輝くポールと真っ白な世界。一つ眼の蜘蛛のような化け物。そして先ほど知り合った、明というようしゃべる女の子。振り返ってみても数渡の頭は混乱するばかりだった。十七年間生きてきてこれほど数渡の理解を超えていった一日は初めてだ。一体、何が起こっているのだろうか。そしてこれから数渡は生まれて初めて女子と二人っきりで食事に行く。本当に人生は何が起こるかわからない。
そういえば、マスは何処に行ったのだろうか、と数渡はふと思った。例のオーダーの部屋で問題を解いてから一度も彼女の姿を目にしていない。数渡は目を閉じてマスの姿を思い起こした。流れるような亜麻色の髪、驚くほど端正な顔立ちと、透き通るような黒い瞳。声に抑揚はなく、感情も決して表には出さない。一体彼女は何処へ行ってしまったのだろうか?自分がこんな訳の分からないところに来る羽目になったのは、元はと言えば彼女のせいだ。さっきもマスの説明不足のせいで化け物に殺されかけた。だが、不思議なことに数渡はマスを恨む気持ちは少しも起きなかった。むしろこのまま会えなくなってしまう事が嫌だと思った。
数渡はベッドから体を起こした。マスの事はひとまず頭の隅に置いておかなければならない。これから他の女子と食事に行くのに、マスの事を考えているのは自分にはおこがましいことのように思えたからだ。数渡はバスルームでシャワーを浴び、髪を乾かし、洗面所に備え付けられた歯ブラシで歯を磨いた。しかし、その間も頭の中にあったのはマスの事だった。クローゼットの中を見て、数渡はため息をついた。そこにあったのはなん十着もの無地の白いTシャツと黒いチノパンだった。初めての女の子と二人っきりの食事にこれでは味気がなさすぎる、と数渡は思った。
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