第4話 試験は本当の数学ではなく、技巧的なゲームに過ぎない4

 今まで経験したことがないほどの勢いで全身に鳥肌が立つ。


 目だ。直径三十センチほどの一つの眼球が至近距離でこちらを見ている。眼球は黒色の太い毛に包まれていた。眼球を包む無数の太い毛はそれぞれ絡まり合って、一つの大きな雫上の形状を作り上げている。黒い毛で出来た雫上の体の下部からは左右四本ずつ毛でおおわれた足が生えている。全体的に見ると、雫上の胴体を持った大きな蜘蛛のような生き物だ。謎の生物は大きな一つの眼球で数渡を凝視していた。呼吸をしているように、胴体がゆっくりと一定のリズムで上下運動をしている。


 数渡は全身が硬直したように動けなかった。学校の先生は遠足でクマに遭遇した時の対処方は教えてくれたが、一つ目の謎の生物に遭遇した時の対処法は教えてくれなかった。きっと逃げるべきなのだろう。死んだふりだとか、鈴を鳴らすとかそういうのではなく。


 しかし足に力が入らない。恐怖のあまり手は震え、心臓は超速のミシンのような速さで鼓動を刻んでいる。呼吸も荒くなり、息が苦しくなる。数渡にはどうしようもなかった。数渡の感じている恐怖は日常的に感じる恐怖を逸脱していた。少なくとも、普通の男子高校生が平凡な暮らしをしていて感じるものではなかった。だから数渡にはどうしようもなかった。そして、どうしようもない、という事に気づいた時にはもう手遅れだった。


 その時には、謎の生物の黒い毛でおおわれた足のうちの一本が、数渡の左肩の辺りを貫いていた。数渡には何が起きたのかわからなかった。左肩に猛烈な痛みが走る。刺された左肩から暗褐色の液体がにじみだす。数渡は茫然と右手で傷口を押さえた。


 生ぬるいどろっとした感触。血、血だ。僕の血。数渡はその瞬間、すべての考えを振り払い、頭を真っ白にしたまま化け物に背を向けて全力で走ろうとした。逃げなければ!とにかく遠くへ!しかし数渡が踏み出した足は空をけり、うまく前へ進むことができない。

 

 一旦拭い去ったはずの恐怖が荒波のように再び押し寄せてくる。数渡は視界に入る赤いポールを目指して前進しようと足掻いた。しかしどれだけ必死に体を動かしてもじりじりとしか進まない。左肩から湧き出る血液に比例して、数渡の頭に絶望感が押し寄せる。数渡は右のふくらはぎに耐えがたい痛みを感じた。見ると自分のふくらはぎを、化け物の足が見事に貫通している。数渡は叫び声を上げながら、何もない空間にうつぶせで倒れた。正しくはうつぶせの状態で宙に浮かんだ。数渡は絶叫しながらも芋虫のように前へ進んだ。痛い、痛いと言っている自分の声が聞こえる。


死ぬ。僕はここで死んでしまう、


 数渡はそう感じた。化け物の気配が迫ってくる。きっと捕食者のテリトリーに入ってしまった時点で、獲物は死ぬ運命なのだ。蜘蛛の糸に掛かった蝶のように、あるいはタコに見つかってしまった巻貝のように。


 数渡は自分の心から恐怖が引いていくのを感じた。かわりに数渡の心を満たしたのは諦念の情だった。殺すならどうか痛みをこれ以上与えないでくれと願った。それでもなお数渡の体をじりじりと前へ動かしているのは、数渡の中に無意識下に残された生存本能と呼べるものだった。


 ポールはすぐ目の前だ。多分距離にして十メートルもないだろう。だから何だ。ポールにたどり着いたらどうなるというのだ。わずかに残っていた生存本能さえも諦念の情に蝕まれそうになった時、なぜだか数渡の頭にふとマスの表情のない顔が浮かんだ。


 ああ、駅でやっぱり彼女について行くことをやめていたらこんな事にはならなかっただろう。いや、もしかしたらマスが教室に現れたその日から、こうなる運命は定まっていたのかもしれない。どうしてだろう。どうしてあの日僕は、彼女に一目惚れなんてしてしまったのだろう。


 ボタンを押して、答えを口に出して言うの。


 マスの言葉が数渡の頭の中を稲妻のように駆け抜ける。


「答えを、口に出して、言う。」


 数渡は目を見開いて呟く。


 こたえ。答え。答えとはなんだ?


 数渡は頭の中で絡まっている記憶の糸を全力で解きにかかった。そうだ、このおかしな空間に来る前に数学の問題を解いた。たしか一次関数の・・・。


 化け物は数渡に再び襲い掛かろうと、足を振り上げる。


「3,マイナス9だ。」


数渡はつぶやいた。


「3,マイナス9!ⅹ=3、y=マイナス9だ!」


 数渡は徐々に声を張り上げていき、最後には叫んだ。何も起きない。数渡の左臀部を化け物の足が貫いた。数渡は絶叫する。あまりの痛みに吐き気を覚える。数渡に絶望が蘇ってくる。


 どうして?どうしてだよ!


続いて化け物は数渡の右の太ももを貫いた。すさまじい痛みで意識が朦朧とするなか、数渡はぼんやりと思った。


 もうだめだ。化け物は急所を狙ってこない。自分の体がレンコンのようになるまで苦しめ続けるつもりだ。それは嫌だ。それからマスにもう会えなくなってしまうのも嫌だ。死ぬのも嫌だ。ここで死ぬ運命だなんて絶対に嫌だ!数渡は両手で空を掻いて懸命に進んだ。下半身はもう使い物にならない。ただだらだらと暗褐色の血液を流し続けるだけだ。そこから滴る血液は、真っ白な空間をどこまでも落ちていった。


 数渡はようやく赤く輝くポールが手に届く所まで来た。激しい吐き気にせき込み、意識が飛びそうになる。近くまで来ると、ポールから等間隔で突起のようなものが飛び出しているのが見えた。数渡は体を起こそうと、ポールから出る突起に手を掛けようとした。その瞬間、右手に想像を絶する熱さを感じ、数渡は再び空間に突っ伏した。


 ああ、そうか、このポールはスターウォーズに出てくるライトセーバーのようなものか。もっと現実的なものでいうならレーザーメスだろうか。数渡は放心の淵でそう思った。右手からは親指以外の全ての指が消えていた。傷口は焼け焦げている。これは僕の手なのだろうか?いや、間違いなくあの日マスに握られた手だ。ほんの数分前までシャープペンシルを握っていた。一次関数のグラフを書いていた手だ。数渡はふとルーズリーフに書かれたグラフを頭に思い浮かべた。二本の線。自分はいつも自然数の位置に目盛りをつけている。等間隔の・・・突起?数渡は最後の力を振り絞って体を半回転させ、仰向けになった。


 化け物はすぐ近くまで来ている。数渡は頭をフル回転させた。もし、このポールが空間座標上に存在する軸を表しているのだとしたら?今、この座標上に存在するのは、地面に垂直なy軸、地面と水平なⅹ軸、それから・・・

 

化け物が数渡にとどめを刺そうと足を振り上げる。数渡は叫んだ。


「3,マイナス9,0」


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