第16話 階上

 二階は怖い。


 その事実に向けられた意識が残っている間は、一階に触れる肌の感触が相応の安堵を提供してくれる。しかし、一たび警戒心を失えば、あの上の世界へ連れ去られる恐怖が頭上から降ってくる危険と接触することになる。


 たった一つの不注意が恐ろしい結果を招く。全身が宙へ浮き、重力という魂の揺りかごから引き離された。身体の浮遊感は時として自由への解放を意味する場合もあるが、この時は安寧の鎖を断ち切られたことを示唆する。


 ギシリ……ギシリ……と、今にも折れそうな木製の梯子を踏みしめる音。段々と遠ざかっていく階下の明かりが、この世との別れを意味しているのではという悍ましい予感を覚え、ぼくは何事かを叫んだ気がする。


 しかし、この深闇の中に、音は響かない。伝わるべき空気がないのかもしれない。最後には、生存という自意識が刈り取られ、五感の全てが誰のものでもない原初へと溶けて形を失っていくのだろうか。


 上方には闇がある。いや、闇を意識していられるのも今だけかもしれない。闇の中へ取り込まれた時、その闇すらも現世の名残として尾を引きながら霧散していき、最後には虚無になる。


 虚無になってしまえば、こうした恐怖心も無くなるはずだ。恐れているのは、虚無へと至る過程であって、結末ではないと言うこともできよう。


 最早、地上から発せられる重力の波動も感じられない。とうとう、終わりの時が来てしまったのか。


 終わりというのは、意識できるうちは左程の脅威ではない。それを認識できなくなった忘却の瞬間が訪れた時、見守るものが諦念の鎌を振り下ろす。


 今、ふとした日常の隙間に理性を奪われた結果、その鎌によって高き宙へと持ち上げられていく。ここから引き戻してくれる存在は……。


 ある。手を伸ばしたら、届いた。まだ意識すれば間に合う段階であったのは非常に幸運だった。


 次にあの虚無と面した時、助かる見込みがあるのかは定かでない。ただ、手にした幸運への感謝と賛辞は、意識ある者の至宝だ。

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リンデ 来星馬玲 @cjmom33ybsyg

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