第5話

 頭の中の靄が少しずつ晴れていく。


 そこに明確な景色は見えない。が、徐々に色を成し姿を表す。


 これは、記憶か。


 夢か、現か。その判断すらできないが、目の前に徐々にかつての記憶が写った。






「怜!聞いてたか?」


 目線のやや上の方から声がした。


 少し視線を上げると兄さんがこちらを見ていた。椅子に座っている僕の横に立って体を落ち着きなく揺らしていた。


「ううん、聞いてなかった」


「ったく鈍臭いなあ」


 僕と兄さんは同じ部屋を充てがわれていた。


 8畳くらいの部屋を二つに分けて、それぞれベッドと勉強机を置いていた。


 それだけでほぼ部屋を使い切っていて、正直かなり手狭だった。


 友達は自分1人の部屋を持っていたので余計に羨ましかった。ある日お母さんに理由を聞いたけど、微妙な顔をするだけではぐらかされたのを思い出した。


「だから、これはこの式を使えばいいだけなんだって」


 忙しなく机の上のテキストを叩いている兄さんの指を見ながら、今日の晩御飯を予想していた。


 兄さんは何でもできる。5歳離れていて、兄さんは13歳、僕は8歳。


 去年同じ塾に入ったが、兄さんはすぐに行かなくなった。程度が低すぎたからだ。


 学校で習うようなことは学校でしか勉強せず、家ではずっと何かも分からない分厚い本を食い入るように読んではブツブツと呟いていた。


 実際に兄さんはあまりに頭がよく、試験で異常なまでの好成績を収めていたので、近所ではまあまあの有名人になっていた。


「しっかりしろよな、こんな問題で手こずってるようじゃダメだろ」


「そうだよね、ごめん」


「まったく」


 僕は、兄さんとは対照的に勉強が苦手だった。


 だからこうして、親の指示で兄さんに勉強を見てもらうことが多かったけれど、それで急に頭が良くなるようなことはなかった。


 兄さんに憧れてはいた。どこに憧れていたのかは正直覚えていないけれど。


 勉強は好きではなかった。勉強しても兄さんには追いつけないから。


 親は兄さんの才能に可能性を感じたのか、色々とお金をかけていた。欲しいと言ったものは惜しみなく与え、やりたいと言ったことは要望の何倍も大袈裟に準備した。


 その皺寄せが僕に来ていることには何となく気づいていたけれど、どうしようもないことだと諦めていた。




 ある日、兄さんが浮かれた顔をして帰ってきた。


 僕たち2人の共有部屋に入ると、手提げの袋から一冊の図鑑を取り出した。


「怜!宇宙ってわかるか?」


「わかるよ、それくらい」


 一瞬自分の中に熱いものが込み上げたが、僕はそれを無視した。


「本当か?すげーぞ宇宙は」


 自分の机に買ったばかりの図鑑を広げて僕に手招きした。


 鈍い足取りで近づき図鑑を覗き込んだ。


 兄さんのいつもより少し高い声を聴きながら一生懸命何がすごいのか考えたが、一向にわかる気配はない。


 大体こういう時は「はは、そうだね」などと言って愛想笑いをしていた。


「な、すごいだろ?」


 図鑑から振り返った兄さんと目があった。


 分からないものを正直に分からないという度胸もなく、何となく目を逸らしてしまった。


「また目ぇ逸らしたな?」


「あ、ごめん」


「ちゃんと見とかねーと見逃すぞ?」


 何気ない記憶だ。




 また違うある日、兄さんは暗い顔をして帰ってきた。


 その日は少し帰りが遅かったが、また何か新しい習い事でも始めたのかな、くらいに受け止めていた。


 しかし、どうやらそうでもないようで、部屋に戻ってからもずっと気落ちした表情だったし、僕に一言も声を掛けてこない。


 そんなことは珍しかったし、隣で重い空気を出されていると何だか気まずい。


「何かあったの?」


 僕が訊いても兄さんは机に向かったまま姿勢を変えなかった。視線は何もない机上に落ちている。右足が小刻みに揺れていた。


「大丈夫?兄さん」


 返事はない。横顔をじっと見つめてみるが、結局何があったのかは分からなかった。


 空気に耐えかねて部屋を後にし、階段を降りた。


 リビングのドアに手を掛ける直前、部屋の中で両親が会話しているのに気がついて、動きを止めた。


「あなたからも何とか説得してください」


「どうしたものか……」


「あの子はまだ13歳なの!出来がいいのは十分わかっているし、何だってやらせてきたけど、今回ばかりは嫌よ!」


「だけどなあ」


「あなたはいつもはっきりしないわね!もっとはっきり言ったらどうなの!」


「何で俺たちみたいなのから、あんな出来のいい子が生まれたんだろうな……」


 その後お母さんが何を言っているのか、聞き取れなかった。


 嵐の中に飛び込む勇気もなく、とりあえずトイレに入った。


「流す」のボタンを押して、水流を眺めた。


 水がどこから流れているのか、この時初めて知った。


 特に感慨もなかったが、水流の音が消えるとそれに代わるように自分の心臓の音が良く聴こえた。速く、大きな音だ。


 何も、自分には向いていなかった。




 これは、夢だ。


 今、それを知覚した。


 早く、早く目覚めねば。


 確かめねばならないことがある。


 浮遊する意識を固定するように力を込める。


 視界を明るくするために、力を込める。


 自分の輪郭を明確にしていく。


 アンコントローラブルな夢の中で、自分の操縦桿を取り戻した。


 それを、力を込めて一気に倒す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る