第6話

 大きく目を見開いた。


「あっ」


 顔を覗き込んでいた似内がパッと距離を取った。


「お、おはよう」


 どうやら、僕は気絶していたらしい。


 ソファの上に運ばれていた。


 上体を起こして瞬きを2回した。今自分が見ていた夢を、しっかり覚えていることを確認した。


 まだ頭の奥が重いような感覚があるが、意に介している余裕はなかった。


「さっきは取り乱して申し訳ない」


 喋り始めの「さ」で体を一瞬ビクつかせた似内は、あくまでも笑顔だ。


「いや、俺の話し方が良くなかったよ。どうしてこうなっちゃうんだろうなあ」


 頭をかきながら、顔に皺が寄っている。


 改めて、目の前の正体不明の青年を観察した。


 髪は肩に掛かるほど長く、目鼻立ちがくっきりしている。色気とも不穏さとも軽薄さとも取りうる妙な空気を纏っている。


「君は、兄さんの子供か?」


 素直に訊いた。


 少し驚いた顔をしたけれど、すぐに口元に笑みが戻った。


 ありえない話だと分かっている。兄さんが「消失」したのは25年前、15歳の時だ。


 15歳で子供を作っていたとは考えられないし、何より兄さんには「そういう」影が一切なかった。


 だが、そうでないとしたら目の前の存在の説明がつかない。直感でそう思っていた。


「正しいと言えば正しいし、そうでないとも言える」


「どういうことだ」


「まず目的を言おうか。俺はね、怜さんをお兄さん……廉さんの所に連れていくためにここに居るんだ」


「え?」


 文字列としては認識できたが、意味が入ってこなかった。どういうことだ?

 それはつまり殺すということなのか?


 だっておかしいだろう。


 兄さんは。


「兄さんは、消えたはず」


「うん。そうだよ」


「だったら」


「消えた人がどこに行くか知ってる?」


 何も言えなかった。今まで考えたことがなかった。


「天国や地獄じゃない、彼らは月に行くんだ」


「……比喩ではなく?」


「うん、本当に月に行くんだ」


「では、死んでいないのか?」


「うん、そうだよ」


 妙な沈黙が続いた。心の整理がついていないし、同時に色々と起こりすぎだ。過多な情報で頭が膨れ上がりそうだった。


 疑問は膨大にある。今まで消えた人は全員月で生きているのか。詩乃は、兄さんはなぜ月に行ったのか。そもそも何で月に人が消えるのか。


 すぐにでも全てを似内から聞き出したいと思ったが、目の前の青年の顔を見て、何も言えなくなった。


 なぜ、そんなにも悲しそうな顔をしているんだ。


 口元には笑みを絶やしていないが、表情からは悲哀を感じた。


 何も言えないまま互いに見つめあっていると、似内が口を開いた。


「怜さんが行きたいなら、月に連れて行く。ただ、行かないというなら強制はしない」


「え」


「俺は、怜さん自身に決めて欲しいんだ」


「そんなの」答えは決まっている。


「もちろん、連れて行ってくれ。そこに詩乃と……兄さんがいるなら」


「そうだよね、わかった」


 次の瞬間、目の前の似内の体が点滅し始めた。


 あとを追うように僕の体も点滅を始める。


 痛みは無い。不安もない。愛する人に会えるのだから。


 程なくして、僕は意識を手放した。



 ※※※



 白い空間を漂っていた。僕以外には何もない空間だ。


 気が触れそうなほど広く白い空間の遥か遠くに、黒い扉が見えた。


 そこに行けばいい。何となくわかった。


 懸命に、泳ぐようにそこへ向かう。


 扉の向こうが希望の地なのかは分からない。


 でも、詩乃がいる。詩乃がいるのなら、どこへでも行こう。


 どのくらいの時間泳いでいたのか自分では分からないが、ようやく扉に手が掛かった。




 視界が上端から形成されていく。


 初めは焦点が合わず、ぼやけた風景しか見えなかった。


 全身が成形された後、周りを見渡してみた。


 無限大の草原。不思議と草の匂いや爽やかな空気の流れを感じることは無かったが、見渡す限りの草原が広がっていた。


 背後には巨大なコンクリートの建造物が無機質に鎮座している。全体の大きさがどのくらいなのか、少し見ただけでは判断できなかった。


 それ以外に建物らしきものはあまり見当たらなかった。所々、作りかけの小さな建造物が見えるだけだ。


 太い柱が等間隔で天空へ伸びている。それはどこまで伸びているのかはよく見えなかったが、電波塔のような役割を持つものではなく、何かを支える柱として荷重を受け止めているようだった。


 ここが、月なのだろうか。


 空が、青い。


 服装は、家にいた時と同じ、ジーンズに白いシャツだった。どうせなら、ちゃんとした服を着てくればよかった。


 後ろから足音が聞こえた。


「怜さん!」


 振り返ると、詩乃が胸の中に飛び込んできた。詩乃の匂いがした。


「よかった……」


 そう口にすると一気に安堵感が身体中を満たし、熱くした。


 その熱が、自分の中で張り詰めていた何かをゆっくりと溶かした。


 少し震える詩乃の肩を抱き、実在することを何度も確かめた。本当に存在している。夢ではない。


 しばらくそうして抱き締めあっていた。


 言葉は交わさなくてもよかった。ただ腕の中の存在に対しての愛情を確かめるように、動かなかった。


「久しぶりだな、怜」


 兄さんが、立っていた。本当に生きていた。


 茶色の細身のスーツに身を包んでいる。40歳のその姿を見るのは初めてだったが、兄さんの面影を残していた。ただ、眼光は僕の知る兄さんのそれとは全く異質だった。


「久しぶり……生きていたんだね」


 詩乃を抱く手を緩め、兄さんと向かい合った。


「お前なら来てくれると信じていた。疲れているだろうから、少し休め。部屋は二人同じにしておいた」


 それだけ言い残すと、踵を返し草原を歩き、巨大な建造物の中に姿を消した。

 彼と入れ違うように、似内が建物から出てきた。


「怜さん、僕が案内するね。この建物は、僕らの住居であり、君のお兄さん……つまり僕のオリジナルの所有物だよ」

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寂れ、滅ぶ。 タロフ @oroorowho

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