春の断章③-1
新学期の初日は、まともな授業もなくあっという間に放課になった。
中学生としての時間をほんの少し体験したというだけで、ほとほと精神的に参ってしまったのは言うまでもない。
この数年、まともに他人と関わることもなかった上に、さらにそれが十も歳が離れた若者たちときたものだ。
この感覚に慣れるには、相当な時間が必要だろう。
まあそんな憂慮は、この際
俺が一番頭を悩ませていたのは、千賀燎火についてだった。
授業中、時々彼女の様子を盗み見ていたが、ほとんど神経質な鋭い瞳で窓の奥を見ているばかりで、まともに教師の話を聞いている様子ではなかった。
休み時間中も一人でぽつんと机に座っているだけで、誰かと会話している光景はついぞ目撃することができなかった。
もしも俺の知っている彼女が学校生活を送っていたとしたら、俺などとは比べ物にならないほど華やかなものになっていただろう。
それだけの魅力が彼女にはあった。
認めたくないが、それより他に解釈のしようがない。
……
放課後、彼女にすぐさま声をかけようと決意していたが、新田たちに絡まれている間にいつの間にか教室からいなくなっていた。
彼らに用事があると嘘をついてその場を抜け出したが、すでに廊下のどこにも彼女の姿はなかった。
昇降口まで追いかければ、あるいは捕まえることができたかもしれない。
しかし、俺はそこで立ち止まってしまった。
正直に言って、怖かったのだ。
千賀燎火は、俺にとってたった一つの救いの光だった。
その彼女が自分を忘れているどころか、まったくの別人として現れた事実を認めなくてはなら
ないことが、怖くて堪らなかった。
すごすごと情けなく、教室へと引き返している最中だった。
背後から「福島さん」と、俺を呼び止める声が聞こえた。
振り向くと日聖がいた。
彼女は、「良かったら、一緒に帰りませんか?」と澄ました顔で言ってきた。
少々気後れしたが、断る言い訳を即座に見つけられなかった。
俺が仕方なく承諾すると、日聖は「久しぶりですね。一緒に帰るの」と無邪気に笑って言った。
鞄を取りに一旦教室に寄ってから、あまり近すぎない距離感で廊下を歩く。
教室には、すでに数人の生徒しか残っていなかった。
初日から皆、部活や遊びやらで多忙なのだろう。
陸上部に入部している新田たちも、すでにその姿はなかった。
三年四組。
思わず、その教室の前で足が止まった。
「どうしました?」と日聖が尋ねてくる。
彼女に「ちょっと待っててくれ」とひと声かけてから、教室の入り口に立った。
俺は「康太」と教室中に響くような声で、その名を呼びかけた。
彼はスポーツバッグを片手で背負うように持ちながら、机の上に座って友人と会話をしていた。
すぐさま俺の声に気づいたらしく、こちらに振り向いた。
「お、永輔」
彼は、人懐っこい笑みを浮かべながら、俺のもとに寄ってきた。
清涼剤のツンとした匂いが鼻腔をくすぐった。
薄い眉に彫りの深い、端正な顔立ち。
スポーツマンらしい日焼けした皮膚と切り揃えられた髪の毛。
高身長だというイメージがあったが、改めて見てみると俺と同じぐらいか、それより少し低いくらいの背丈だった。
凛々しく涼しげな雰囲気を纏わせ、いかにもクラスのカースト上位だという雰囲気を漂わせている。
「久々だな。休み中もほとんど顔合わせなかったろ?」
俺は大義そうに頷いて、あらかじめ用意していた台詞を吐いた。
「高熱で、ほとんど自分の部屋から出られなかったんだよ」
すると彼は盛大に吹き出して言った。
「まじかよ。せっかくの春休みを不意にしたって、やっぱりお前はついてないな」
「ああ、つくづくそう思う。康太はずっと練習だったんだろ?」
「そりゃあな。ほとんど毎日練習三昧な春休みだったよ」
そう言って彼は嘆息したが、その顔は本気で嫌がっているものではなかった。
いつかは顔を合わせることになるのだからと、少々勇み足で自分から接触しに行ったが、やはりそうだった。
三年生になった福島永輔がもしかしたら享受していたかもしれない、存在しないはずの三年目の始業式。
それこそがこの世界の実態であることを、ようやく検証し尽くすことができた。
「今日も、これから練習なのか?」
「ああ、夏の大会まで間がないからな。あとの三ヶ月は勉強じゃなくて、ボールを蹴り上げることに集中するさ」
「それは羨ましい話だ。俺も、サッカー部に入っとくべきだったな」
「うるせえよ。こちとら二年半の練習時間がかかってんだ。高校の受験勉強ぐらい、夏休みから始めてもおまけがくるだろ?」
「ごめん、ごめん。まあ大会、頑張ってくれよ」
そう返してから、俺は教室の入り口で所在なさげに待っていた日聖に目配せした。
「俺はもう行くよ」
彼が屈託ない笑みを浮かべて頷くのを見届けてから、俺は性急に
「なあ、永輔」
ふと康太が俺を呼び止め、俺は立ち止まった。
「……お前、なんか大人っぽくなったな」
「……ああ、誰かさんのおかげでな」
背中を向けたまま答えて、俺は教室を出た。
自分の膝が震えていたことに、その時になってようやく気がついた。
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