幕間1-⑤

 何度か千賀燎火という女性と接して、確信したことがある。


 俺と彼女は、あらゆる点において対極と言える存在だった。


 千賀燎火という人物は、あらゆる物事を限りなく好意的に捉える才能を持ち、俺はその逆にあらゆる物事を後ろ向きに捉える悪癖を持っていた。


 彼女は短い言葉で本質を語り、俺は長ったらしい言葉で本質を騙った。


 自分とはまるで真逆な性質を持った人間に、しかも俺のような日陰者が惹かれるなど、理解しがたいと思えるかもしれない。


 だがあまりに対極な要素は、突き詰めて考えてみれば、その遠さゆえによく重なり合うものなのだ。


「……燎火さんは、自分の身の上を不幸だと思ったことはないんですか?」


 ある日、俺は二人きりの講義中にそんなことを尋ねた。


 それは前後の文脈から、完全に切り離された発言だった。


 藝術げいじゅつの批評理論の話をしていた時のことだったと思う。


 批評行為とは、理由に基づいた作品の価値づけである。


 まるで漫画のキャラクターみたいに洒落た名前の学者が書いた、ある本の受け売りを噛み砕いてまとめたものだった。


 彼女の読書生活の糧になるかと考えて、勘でチョイスした話だった。 


 それは、馬鹿としか言いようがない質問だ。


 俺にも自覚はあった。


 今まで無難な話題しか切り出してこなかった口から、いきなりそんなデリケートな話題が転び出たのだ。


 心の中で驚きと後悔が混じり合い、張り詰めた静寂の中で彼女の返事を待った。



 何か、深刻な動機があったわけじゃない。


 だが心の底では……、常々疑問に思っていたのだ。


 千賀燎火という女性は、どう見ても理不尽としか言いようがない不幸を背負っていた。


 なのに、それを思わせないほど、彼女は自分から程遠い場所にいた。


 それが俺の中で引っかかっていた。


 ……いや、そうじゃない。


 彼女に惹かれる一方で、俺は少なからぬ憤りを彼女に感じていたのかもしれない。


 それを認めてしまえば、さらに自分が惨めになってしまうことが分かっていた。


 だから適当な言い訳をつけて、本音を誤魔化していたのだ。


 本当に俺という奴は、どこまで行っても救いようがない人間だ。



「それはもちろん、ありますよ」


 彼女はそう答えてふっと笑ってから、「でもだからこそ、です。私には小さな幸福が、とても大きなものに思えるんです。こうやって今を生きているだけで幸せだと感じることができる」と弾むようなリズムで言った。


「燎火さんの言いたいことは理解はできます。でも納得はできない。だから自分は病を患っていて良かった。こうしてベッドの上で半生を過ごしても幸せだと言えてしまうんですか?」


「断言はできません。でもある意味ではそうなんです」


「だとしても、それは不幸を愛する理由にはならないでしょう?」


 それはただの負け惜しみだった。


 まんまと、彼女に惹かれてしまった。


 勝ち目の乏しい賭けに乗ってしまった自分が滑稽こっけいで吐いた、八つ当たりのような毒にすぎなかった。


「ええ、確かに。じゃあ、こう言った方が正しいでしょうか。不幸は幸福の中にあって、幸福は不幸の中にある。どちらか一方しか見当たらないなんて、そんなことはないんです。幸福はあざなえる縄の如しと言いますが、そんな簡単なことじゃない。どちらもあべこべのように、本質は同じで、ただ見え方が違うだけなんです」


 それから彼女は、気まずそうに頬を掻いて、「なんか、恥ずかしいことを言ってしまいましたね」と場を弛緩させるようにぽつりと言った。


 それ以上、俺は何も言い返せなかった。


 反論しようと思えばいくらでもできたが、どんな言葉でも彼女に太刀打ちできないような気がして、喉の奥で潰えてしまった。


 ああ、完敗だ。


 彼女の言葉を聞いて、俺はすかさずそう悟った。


 とっくに自分の中で、千賀燎火という存在は特別なものになってしまっている。


 その事実を認めざるをえなかった。



 数年前の秋、大学の門の前で吸った空気の匂いを思い出す。


 ……何にも、何にも、求めまい。


 あの日の誓いは、とっくに跡形もなく潰えてしまっていた。


 今すぐ病院の窓から飛び降りたくなるほど、自分が惨めに感じられたのを鮮明に覚えている。


「授業、また始めましょうか」


 そう言って、彼女は俺が再び語り出すのを待ち受けるように目を閉じた。



 あの時、彼女が語った言葉がどこまで真剣に放たれた言葉なのか、


 どこまで考えた末に出された結論なのかは分からない。


 しかし俺が思うにそれは、一面では救いようがないほど幼稚でいながら、もう一面ではどこまでも正しい態度なのだろう。


 少なくとも、彼女の言葉が俺の過去を救ってくれたのは間違いない。 



 そんな生活が数ヶ月続いた。


 この愛しい日々が、果たしていつまで続くのだろうか?


 全ては俺の頭が生み出した都合のいい妄想で、現実には千賀燎火なんて人物は存在しないのではないか?


 ベッドに繋がれているのは、その実、俺の方なのではないか?


 そんなつまらない疑念をよぎらせながら、母と彼女に挨拶をして病室を出た。


「また来てくださいね」


 彼女がその言葉を欠かすことはなかった。


 それだけで俺は、この世界がしてきた全ての仕打ちを許すことができる気がした。   



 彼女と過ごした、あの燃えるように輝いていた日々。


 それについて、これ以上詳細に語るのは今は止めておこう。


 宝物のような記憶を一つずつ並べ立てて、それらを眺めて耽溺たんできしていたって今は仕方がない。


 ただ一つだけ。


 千賀燎火という人物に俺が分不相応にも想いを募らせてしまった。


 それだけが伝わればいい。




 俺は全部で計十五回、病院に訪れた。


 その時の見舞いは、すでに十回目を数えていた。

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