幕間1-⑥
はっきり言って、俺は千賀燎火の死を頭のどこかで予感していた。
彼女の一挙手一投足が、遠くない未来に訪れる悲劇を示唆しているように思えてならなかった。
だが俺は、なるべくそれを意識しないように努めた。
目を逸らし続けたのだ。
そのツケを清算する日は、あっという間にやってきた。
ここからは駆け足で、事の
年が明けてほどなくして、母は退院した。
体のいい大義名分を失った俺は、そのタイミングで潔く、彼女に会いに行くのを止めようと思った。
なけなしの理性が、これ以上彼女に執着するべきではないと必死に訴えたからだ。
母が病室のベッドを空けて、一週間が経ったある日のことだった。
俺は最後の別れを告げるために、いつもの病室へと向かった。
何も言わず、二度と顔を合わずにいようとも考えたが、結局は最後にもう一度だけ彼女に会いたいという誘惑が勝った。
そういえば、その日は珍しく、病室の前で初老の品のいい男女のペアとすれ違った。
軽く頭を下げられたので、疑問に思いながらも一応礼を返した。
その時は思い至なかったが、彼らこそが千賀燎火の保護者だったのだろう。
受付を済ませ、おそるおそる病室の扉を開ける。
いつもとは違った、困ったような彼女の微笑みが俺を出迎えた。
「……ああ、永輔さん、来てくれたんですね。千裕さんがいなくなってしまったので、もう二度と会えないんじゃないかって、心配していました」
俺は深く頭を下げて、この日のために散々考えてきたイメージに沿って言葉を紡いだ。
「入院中は母がお世話になりました。なんの関係もない俺と仲よくしてもらって、なんとお礼を言ったらいいか」
そこで一瞬の空白を挟み込み、いかにも申し訳なさそうな声で切り出す。
「今日は本当に、ただお礼とお別れを言いにきただけなんです」
頭で思い浮かべていた脚本通りの、台詞と演技だと思った。
だが彼女は、さも不思議なことを聞いたかのような間の抜けた顔で、「では、もうお見舞いには来てくれないのですか?」と尋ねてきた。
俺は、少なからず動揺した。
そんな返答が返ってくるなんて、微塵も想定していなかったのだ。
そんな俺の動揺など意に介せず、彼女は能天気な笑い声を漏らした。
「ねえ、永輔さん。実は私、さっき生まれて初めて携帯電話というものを手に入れたんですよ」
そう言われて、俺は違和感に気づいた。
床頭台の上には、今まで影も形もなかったスマートフォンと真っ白な化粧箱が置かれていたのだ。
「祖父に頼んで、手に入れてもらったんです。私、ずっと誰かと携帯電話で連絡し合ったり、話し合ったりするのに憧れていたんです。永輔さん。もし良かったら、ぜひ私と電話番号だったり、メールアドレスを交換してはいただけませんか?」
豆鉄砲を食らったような顔で、俺はなおも放心しながら、「ええ、もちろん」と半ば自動的に答えた。
互いのアドレスをメモ用紙に記して見せ合うという旧式な方法で、俺たちはアドレスと電話番号を交換した。
最新のSNSと技術が氾濫している中で、なんとも行き遅れているものだ。
だがそれが俺たちには、一番性に合っているやり方のように思えた。
「ずっと、夢だったんです。本当に親しい人としかできないことですよね、メールの交換って」
「意外ですね。入院中の身だとしても、燎火さんのような人だったら、誰とでもそんなことできたはずじゃないですか?」
おそらく以前にも、病室で彼女と関係を深めた人は何人もいたはずだった。
だからこそ、俺には理解できなかった。
なぜ彼女は俺のような人間にここまで執着するのだろう。
「……そうでもないですよ。退院すれば誰でも、私のことなんて忘れてしまうのが常でしたから。でも、それでいいんです。入院生活の思い出なんて、退院して日常に戻ればすぐに薄れてしまうものなんです。そしてそれこそが、健全で正しい態度なんですから」
俯きがちに、彼女はそう言った。
その台詞には珍しく、ありありと寂しげな響きが伴っていた。
俺は、ただ押し黙って彼女の話に耳を傾けた。
「だから永輔さんみたいに、ただ私だけに会いに来てくれた人は初めてでした。ただただ、嬉しかったんです」
そして、続けてこう言った。
「ちょっと順番が逆になっちゃいましたが、もし永輔さんが構わないのでしたら、私と友だちになってくれませんか?」
笑顔で手を差し伸べられる。
なんてことのない友人関係だとしても、それで一つも構わなかった。
彼女と特別な絆を結ぶことができるのだったら、俺は満足だった。
だって俺は、彼女と出会ったあの日からずっと、千賀燎火にとっての何者になれるのかを考え続けてきたのだから。
『一月十六日 午前七時七分
おはようございます。今日はいいお天気ですね。お昼に散歩ができないか看護師さんに訊いてみたいと思います。今日という日が永輔さんにとって素晴らしいものになるよう祈っています』
『一月二十三日 午後十二時三分
こんにちは。今日は午前中から数学の勉強をしていましたが、三角関数の証明問題が難しくて理解できませんでした。今度いらっしゃった時にぜひ教えて頂けると嬉しいです。そういえば、以前千裕さんから永輔さんが小さかった時の話をお聞きしました。とても勉強はできたけど、病的にお化けが怖かったらしいですね。それでいつも、幼馴染にはからかわれていたとか。……ついイメージしたら、とても可愛くて笑ってしまいました』
『二月三日 午後十九時三十九分
こんばんは。今日も一日お疲れ様でした。突然ですけど、病院食は淡白で私はあまり好きではありません。私の実家の食事も淡白だったので、正直うんざりです。塩分の制限があるのは承知していますが、好きなものを好きなだけ食べたいというのが、私の夢です。世間では焼肉屋というものが流行っているらしいですね。私も人生で一度ぐらいは訪れてみたいものです』
彼女から送られてくるメールの冒頭は、いつも「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」のいずれかで統一されていた。
一つ一つの文章を、どれほど画面に穴が空くまで見つめ続けたことだろうか。
返信が早く届かないかと、いくら待ち焦がれただろうか。
これでは、まるで思春期の中学生のようだと馬鹿にされても仕方がない。
きっと、それはある意味で的を得ている。
彼女と出会ったあの時から、停滞していた俺の時間は、ようやく音を立てて駆動を始めたのだから。
終わりのないフリーター生活から抜け出すために、俺は有用と思われる資格の勉強を始めた。
バイトのシフトが入っていない時間は、睡眠と食事を抜いてほとんどを勉強の時間に費やした。
幸い、同じような生活は浪人時代に経験していた。
三日に一回かかってくる、電話越しに聞こえる彼女の声。
一日に数度交わされるメールの文章。
それだけで、一日の疲労はたちどころに消え去った。
目の前の現実を改革するだけの、はるかな意思を手に取ることができた。
次に彼女に出会った時、もう少しまともに人間になれているように。
そう願って、俺は
愛しいと思える誰かのために、自分の生活を捧げる。
思えばそれは、二十五年間の人生で一番有意義な日々だったかもしれない。
しかし、皮肉な話だ。
それと反比例するように、彼女のことを顧みる時間は少なくなっていった。
次に会う時には、少しでも前進しているようにという強迫観念に自縛されて、見舞いに行く頻度も次第に少なくなっていった。
多忙な日々が仇となって、メールも次第に返信が遅れていき、メッセージもおざなりなものになっていった。
暦はあっという間に三月に入り、次第に春が近づきつつあった。
ある日を境にして、彼女からのメールや電話はぱったりと来なくなった。
最初は愛想を尽かされたのかと思ったが、違った。
その二週間後にいきなり彼女からメールが届いた。
「もしも時間があったら、また病院まで来てくれませんか?」
最後の時が迫っていた。
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