第三十話 Silent pulse


「ねぇねぇ、次どこ行こっか」

 本当に何も知らないエリカの平常運転が全員の目前を通過する。

「あ、私吹奏楽部に行ってみたいです」

 ノアが小さく挙手をしながら意見を述べる。音楽に興味がある様には思えず、悠斗が尋ねようとしたがその前にあーちゃんが微笑みながら手を合わせる。

「入学式の演奏の人を見に行きたいの」

 楽しそうに言葉を交わし合う年下組の会話の中に引っ掛かりを覚える。

「待て、おまえら入学式行ってないだろ」

 後方から割り込む突っ込みに全員が振り返る。唯は悠斗の後ろにぴったりと付いていたため後頭部の辺りを見上げるだけだったが。

「行ってなくも噂になってるんですよ」

 ノアが右手の人差し指を立てながら無駄に自慢げに話す。

 それを見てあーちゃんも嬉しそうな微笑を浮かべ付け加える。

「担任の先生が吹奏楽部の、特に……おと……おと……大人さん?を褒めてたの」

 名前くらいは覚えてあげようね。

 そうやって首を傾げたあーちゃんを見て珍しく白翼が微笑む。

 その珍しい笑みを見て悠斗も僅かに口角が上がる。

 きっとこうして楽しみや悲しみなどの感情は伝播していくのだろう。

 エリカも悠斗の変化を目にして舞い上がる様に回っていた。


「誰だよ大人さん」

 悠斗が知らない苗字に肩を竦め真後ろを振り返る。注目が集まったことに動揺したが恐らく正しい解答をしてくれた。

 余談だが大人と書いて「おとな」と読む苗字はあるらしい。事実かどうかは知らないが。

音和おとなぎさんでしょ、音和美楽みらさん。三年生で入学式のとき個人からの贈り物として独奏してた」

 唯一今年の入学式に参加していた唯はしっかりと記憶していた。

 歩きながら会話を続けるが、果たして一同はどこに向かっているのだろうか。まだ音楽室へ向かってはいない。


「独奏ってのはピアノだよな?」


 昨年の入学式、つまり悠斗の世代では独奏など披露されなかった。恐らく今年からだろう。


「ヴァイオリン」


 ちょっと誇るような言い方をした唯だがそんな部分を気にする暇もなかった。ただ純粋にその言葉にのみ感嘆させられて。

「マジか」

 一同は口をポカンと開け立ち止まる。そのとき悠斗は初めて自分が一階にいることに気がついた。キョロキョロと辺りを見回した後誰かを指定するわけでもなく尋ねる。

「なあ、吹部っつったら音楽室だろ、4階じゃね?」

 再び歩き始めるとノアが答え始める。

「観客が多すぎて音楽室じゃ収まらないから体育館で行うそうです」

 実に親切に説明してくれるノアに対し後方で唯がため息を吐いていた。小さく振り返ると理解不能な目で見ていた。

「悠斗さぁ、去年行ってないわけ? 何でそんなことも知んないのよ」

 使えない、無能と言いたげな表情で首を振る。しかし悠斗がこの面に関して無知であることが事実なため反論はできなかった。


「俺が部活動紹介なんか回ると思うか?」


 敢えて問い返す。すると「あー、はいはい」と素っ気無い態度で虫を払うように手を動かした。次第に唯が辛口へと戻っていくのを感じ取り安心感を覚えるがおくびにも出さないのは当然である。

 その片鱗を見せれば唯が何か勘づく可能性がある。『今はまだ』唯には話さない、司との約束を。


 そのまま会話もそこそこに体育館へと到着した。

 いつもはしまってあるパイプ椅子が誰の努力か整頓されており、既に多くの席が生徒で埋まっていた。誰かが走って準備をしていたりするが案外静かな空間だった。けれどやはりそれなりの騒々しさはある。

 前方の席は人気なのか全て占拠されていた。なんと前側を陣取っているのは殆どが2、3年生の男子だった。彼らは昨年か一昨年の間に音和美楽を知りファンになったのだろう。

 並んで座れる空間は一か所しかなく何故か誰も陣取らなかった中央へ腰を下ろした。

 それなりに近くに見ることができ周りに人が通る事もないため比較的人気な席に思えるが目立って空席だった。しかも見事に6つの空席。


 何となく館内状況を確認したかった悠斗はぐるっと内部を見渡した。後方には校長や伊龍といった一部の教職員から生徒会役員ほかボランティアの生徒などが見張っておりそれなりの緊張感も見えた。

 しばらく待機させられているとやがて体育館全体の照明が落ち、さらにその数秒後スポットライトがステージの袖へと向けられた。その位置にはまだ人影はなかったが悠斗は覇気から存在を認識する。誰も見ていないと言うにも関わらずステージへ向かって一度お辞儀をする礼儀正しさまで持ち合わせていた。

 既に静寂に包まれた広大なステージからカツカツと靴音が響いてきた。服装は基本制服だが、靴はステージ用のヒールだった。

 学校での歓迎を目的とした演奏なため化粧などの装飾も一切入れていなかったがとても美しく少し白んだ肌が照明を浴びて輝いて見えた。

 中央で静かに立ち止まると館内を視野へと収め手にしたマイクに声を吹きかけ始める。


「みなさん、今日は私と吹奏楽部の演奏に足を運んで下さって誠にありがとうございます。早速ですが演奏に入っていきたいと思います。本日使用する楽器は、ハープです」


 最後まで聴き終えた聴衆がザワッとする。悠斗らは一度も聞いたことがないが言い回しから毎度使用する楽器が違うらしい。何種の楽器が扱えるのかは未知数だがかなりの上腕者と思われる。

 スポットライトが一度消え何かを動かす音がしたかと思うとまもなく彼女の姿が視界に映り込む。傍らにはたった今準備したと推測されるハープが一つ、静かに居座っていた。


「それではお聞きください、『Silent pulse』」


 刹那、世界の時に歯止めがかかった。


 冒頭、柔らかく響き始める微かな音色は聴くものを夢の世界へといざなうようで心地良い。直接心へと響く優しく奏でられた弦の振動が律動とともに歩みを進めてくる。

 これこそまさに曲名にマッチしている感覚だ。静かな音波が体内へと直接入り込み脈拍をリードしているような錯覚を引き起こされる。


 30秒ほど続いただろうか。


 既にこの音を記憶してしまった脈動はいつまでもその速度を保ち安らぎが全身を駆け回り続ける。

 ここだ! この隙を狙ってくる。

 人々が安寧の時に身を投げ出している最中、曲調に変化が訪れた。

 激しく無いが強く心に振動してくる。焼き付いた音を簡単に手放せない聴衆はまたしても彼女の音楽にリードされる。数度訪れるドレミの階段は強く心に残った。

 今までは花園にいたかと思えば突然波打ち際へと放り出される。砂浜と花園が隣り合うことは比較的珍しい光景なことは言うまでも無い。だが、その不自然な環境が自然に脳内に描き出される。

 優しく押し寄せる波は静かな音を立て砂を手繰り寄せる。何度も何度も繰り返されるドレミの階段はこの柔らかく吹き抜ける波風を表していると直感できる。このイメージは悠斗のような勘に優れたものに限らず全ての人間が引き出せる空想の世界だ。

 次第に乱れた心拍も再び呼吸を取り戻し、またしても勝手にハモろうとする。

 律動と波風の二重奏は全身へと穏やかな熱を持たせてくれる。心地よくなっていき眠気までも誘う美しい共鳴。このまま目を閉じて仕舞えば一瞬の快楽を手にすることができる。


 そんなこと、演奏は許さない。


 曲は人に聞かせるためにある。その人を寝かせる曲など、子守唄でも無い限りこの場では絶対に奏でない。人を魅了し、人を誘惑し、人を感動させるのが音楽の仕事。

 曲調の変化はいつだって唐突だ。

 空ろな意識の観客たちを激しいクレッシェンドで無理やり引き起こす。

 曲のタイトル『Silent』の部分を忘れてしまいそうな勢いのあるパートは印象深く確実に生徒の脳へと吸収された。

 ここまでで合計1分ほどが経過。曲としては恐ろしいほど短いが着実に心へと音色を刻み込んでいる。果たしてどこがサビなのか分からない。


 最後の追い上げ、一定の勇ましさで駆け抜け続けた音響はパッタリと止まる。

 2秒の沈黙、そして訪れる静寂の響き。

 クレッシェンドを巧みに使い大きくなる音は振幅が大きい。音階は分からないがどこかでデクレッシェンドへと切り替わる。半分ほどまで折り返すと最後に近しい音の二連符がディミヌエンドで結ばれて耳まで通らない波長へと退化していった。


 曲時間にして約2分。長い曲ではなかったが強く心を動かされる曲だった。感動と驚嘆のあまりほとんどの生徒や教職員が押し黙っていた。その圧倒的な重力から解放したのは生徒会役員。司会と思われる生徒が合図を送った。

「吹奏楽部、音和美楽さんでした。盛大な拍手でお送りしましょう」

 途端、館内が熱狂し高熱を帯びてくるのがわかった。


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