人魚の涙 12
「ご苦労だったな、銀二、小雪。あとは俺がやる」
至近距離から竜胆の顔を見上げたカヨは、はっきりと見た。
茂みの奥にいるときは薄暗くて気づかなかったもの。月光を反射してぎらりと光る紅い瞳、口元から覗く鋭い牙……そして額から生えた二本の角。
「鬼……!」
それは昔話に、寝物語に、古来より畏れとともに語り継がれてきた伝説の存在。
人間をはるかに凌駕する怪力を持った暴れ者。
そして、おそらくは日本でもっとも名の知れた悪神。
「立てるか? 下がってろ」
竜胆はカヨを地面に下ろした。
カヨはふらつきながらも後ろに下がる。
「よしよし嬢ちゃん、もう大丈夫だ」
カヨを抱きとめた銀二が小声でカヨに耳打ちした。
「角を出した竜胆に勝てる奴なんざこの世にいねえよ」
爛々と瞳を輝かせ、竜胆は背後の三人を守るように立つ。
「ほう、そちらも鬼ですか。ではこちらも改めてご挨拶を」
洋服に身を包んだ男は被っていた山高帽を取り、外套を靡かせて大仰にお辞儀をした。
「私はヴァンパイア、この国の言葉を用いるならば吸血鬼。名前の通り、人の血を好みます」
竜胆は眉を上げた。
「聞いたことがあるぞ。吸血鬼……外つ国の妖。人の生き血を啜り、蝙蝠を従え、夜を渡る者。……死した人間を意のままに操るとまでは知らなかったが」
「ご名答。しかし、せっかくの下僕たちが無惨な姿になってしまいましたね……これでは私の命令を聞いてくれない」
吸血鬼は氷漬けになった下僕たちを見て、悲しげな口調とは裏腹に、唇をきゅっと歪めた。
「仕方ない。新しく作りましょう」
どくん、と脈打ったのはカヨの心臓である。
「あっ」
カヨの首筋の噛み痕が禍々しく光り、黒い霧が溢れ出す。
「カヨさん!?」
「しまっ――」
とめどなく吹き出す黒い霧がカヨの身体を覆い、巻きつき、取り込んでいき……やがて、全身を覆った霧がするすると首の傷跡へと吸い込まれていく。カヨの全身が、どん、と一際大きく脈打った。
吸血鬼に血を吸われた童貞と処女は、その吸血鬼の眷属と化す。
カヨの口元から鋭い牙が覗いた。
「くそっ」
銀二が狼狽する。
「これでお前も夜の住人だ。……そいつらをやってしまえ!」
カヨが、銀二と小雪に襲いかかる。
「カヨさん! カヨさん!」
「嬢ちゃん、おいしっかりしろ嬢ちゃん……ああくそっ、頭ん中まで塗り潰されちまってやがる!」
『正気を保て! うかうかと操られるでない!』
三者三様の呼びかけに、カヨは答えない。
虚ろな目を光らせ、手近な銀二に狙いを定める。
十三歳の娘とは思えぬ動きで距離を詰め、銀二の首を食い千切ろうと迫った。銀二はカヨの混濁した意識の中から動きに関する部分を読み取り、躱す。爪の一撃を避け、噛みつかれそうな右腕を引っ込め、流れるように大きく退がる。
躱し続けるしかない。反撃などできるはずもない。
加勢しようとした竜胆が、踏み留まる。
「厄介なあの老人さえ抑えてしまえばこちらのもの」
勝利を確信した吸血鬼が立ちはだかった。
「お前の相手は私です」
回転とともに吸血鬼が繰り出したのは、大木の幹さえ一撃でへし折りそうな後ろ回し蹴りである。
しかし竜胆は、これを平然と掌で受け止めた。
「なっ……」
そのまま足首を掴み、捻る。
吸血鬼とて、身体構造は人間とそう変わらない。
男の膝関節を極め、裂帛の気合いとともに回転しながら肩を支点に振り下ろした。
「せいっ」
足を掴んだ変則背負い投げ。吸血鬼の身体が宙に浮き、縦回転して地面に叩きつけられた。
「馬鹿な……っ」
頭から硬い地面に叩きつけられ、反動で海老反りになった吸血鬼が呻く。
「サトリがいなけりゃ勝てるとでも思ったか? 随分とまあ舐められたものだな、外様の
そのまま数度、頭陀袋のように軽々と持ち上げては地面に叩きつける。
地面が抉れ、陥没し、土埃が舞った。
「俺は、鬼だぞ」
竜胆はくるりと回転し、吸血鬼を投げた。
あまりの急加速に、掴まれていた足首の骨が耐えきれずへし折れる。
吸血鬼の身体は砲弾のように撃ち出され、樹木を薙ぎ倒しながら木立の中へと消えていった。
大岩に衝突してなんとか止まった吸血鬼は、口の端から血を垂らし狼狽していた。満月の晩……吸血鬼の力を存分に引き出せる最高の状況下においてなお、あの妖魔に及ばない。
単純な膂力の問題ではなかった。
(存在の、格そのものが違う……)
古来より、人々の信じる心こそが妖たちの力の源。
日本中で語り継がれてきた怪物を前にしては、本国では魔人と怖れられたはずの吸血鬼さえ、ただただ戦慄するほかなかった。
(ここが島でなければ!)
吸血鬼は歯噛みする。
吸血鬼はその性質上、水の上を渡れないのだ。杭を打たれて棺桶に封印され、吸血鬼としての力をほぼ失っていたことで、皮肉にも海を越えられたのである。ここで逃げたとて、海に入って溺れ死ぬより他にない。
「ええい眷属よ! こちらに……」
「無駄だ」
いつの間にか吸血鬼に接近していた竜胆は口元を歪めて笑った。
命令を受けたカヨはなんとかして動こうとしているが、その場から一歩も前に進めない。牙を剥き出し、腕を振り回して唸るばかりである。
銀二の雷がカヨの動きを一瞬だけ止め、その隙に小雪がカヨの足元へ雪風を吹き寄せたのだ。
カヨの足は今や、地面にうずたかく積もった雪で凍りついていた。
「こっちは大丈夫です。竜胆さん、あとはお願いします!」
小雪が叫んだ。そして、何かを聞き取ったかのように耳をぴくんと動かして祠のほうへ走っていく。
「覚悟はいいか?」
拳を固める竜胆に対し、吸血鬼は「まだだ!」と右手を掲げた。
目の前に迫る恐怖に、魔人としての矜持が打ち勝ったのだ。
木立の隙間から数多の蝙蝠が飛び出し、吸血鬼が掲げた右手に吸い寄せられていく。
蝙蝠たちの影が溶け合うようにして一つになり……やがてその手には、闇色に輝く
この剣に斬られれば、傷口から吸血鬼の血が流れ込む。
相手が人間であろうと妖魔であろうと、支配できる。
己の血を用いて他者を従えるのが吸血鬼である。
夜を渡り、血を操る高貴な一族。
己に流れる誇り高き血を裏切るような、無様な真似はできない。
(傷さえ……一筋でいい、傷さえ!)
強者の驕りを捨てた、全身全霊の一撃。
地面を抉るほどの踏み込みから、その体重をすべて乗せた刺突が竜胆の心臓へと奔った。
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