人魚の涙 11

 カヨを追えない、と判断した男は指を鳴らす。

「娘を追え! 逃すな!」

 男の命令に、死体たちがぞろぞろと竜胆が消えた茂みのほうへ向かい始める。


「小雪!」


 銀二の叫び。

 返事の代わりに吹いたのは、雪を纏った一陣の風。白銀の輝きが荒れ狂い、動く死体たちが瞬く間に白い雪氷で染め上げられていく。


 やがて、氷漬けになった死体たちはぴくりとも動かなくなった。


 それを為したのは、茂みの奥で震えながら手を翳している小雪である。小雪は雪女の一族、その末裔。雪と氷を操るのは、彼女にとって歩くより容易い。


 自分の手駒を氷漬けにされた男は、呆然として銀二を見る。

「貴様ら、何者――」

 男の質問を、銀二は待たない。


 三度目の雷が、男の頭を直撃した。

 銀二の逆立った白髪は、今や雷を纏って蒼く発光していた。


「ちと乱暴になっちまったが、だいたいもらったぜ。心臓に杭を打たれ、棺桶に詰められて海に流されても生き延びた怪物か……やれやれ、そんな奴が流れ着いちまうとはな」


 男がぎょっとしたように目を見開く。

「貴様……どうやって……!」


「だからのさ」

 銀二は、とんとんと自分の頭を叩いた。銀二はサトリと呼ばれる妖怪である。その力は、相手の考えていることをすべて当ててしまうというもの。


 動物が頭でものを考えるとき、極小の雷が体内を流れると言われている。サトリはその雷を髪の毛で自在に感知し、読み取り、操っているのだ。


 陸からは影さえ見えぬほど遠くの島にいたカヨの場所も、この髪の感度を極限まで上げることで読み取ったのである。


「わけのわからぬ術を!」

 男が外套を翻し、銀二に襲いかかる。


 銀二の髪の毛がぱりり、と音を立てた。


 男の鋭い爪が横薙ぎにされるより早く、銀二は身を屈めていた。銀二の腹を狙った男の蹴り足が地面から離れる前に、銀二がその足を踏みつけている。至近距離から銀二の首に噛みつこうとするとき、すでに銀二の首はそこにはない。

 逆に、避けたつもりの銀二の拳は正確に男の急所を抉り、腕を上げて防ごうとした蹴り足は腕の下を潜り抜けて骨を軋ませる。


 あまりにも異質な戦いにくさに、男は跳び退って距離をとった。銀二の動き自体は男よりもはるかに遅いはずなのに、攻撃が当たらない。動く前に、動かれている。


「……読心か!」


「さっきから言ってんだろうが。聞いてんだよ」

 腕を動かす。脚を動かす。そう思ってから実際に動くまでにはほんのわずかな時間差が存在する。だが、頭で考えた時点で銀二には筒抜けだ。


 どれだけ強い攻撃も、来るとわかっていれば対処は容易い。


 ありとあらゆる攻撃が初動から防がれてしまう。その状況下で、しかし男は不敵に笑った。

「では、もっと速くいくぞ」


「……来いよ」


 銀二の額に汗が浮かぶ。

 読心による先読みあってこその動き。実は銀二の動く速さ自体は、普通の人間とほぼ変わらないのである。


 銀二が男の思考を読み取る。

(下段の蹴り!)男が動き始める。銀二は一歩下がる。

(上段鈎突き、掌底打ち下ろし!)仰け反る。横に跳ぶ。銀二の鼻先を男の拳が掠める。

(軸足を狩る回し蹴り)

(目潰し)

(左右鈎突き)

 今や男の動きを読み、逃げるだけで精一杯。加えて銀二は、人間より長命とはいえ、かなりの老齢である。息が切れ、体力が尽きれば最後。


「おい竜胆! まだか!」

 叫んだ拍子に足がもつれる。

「しまっ……」


 体勢を崩した銀二に男が拳を叩きつける寸前、再び雪と氷を纏った風が吹いた。

「させません!」

 轟、と風が唸る。今度の吹雪には鋭く尖った霰が混じっており、受ければ無事では済まないことを悟った男は跳び退って大きく距離をとった。


「ちぃっ……」


 銀二と男の間を割るように雪と氷が荒れ狂い……風が止んだとき、そこにはカヨを抱きかかえた竜胆が立っていた。


「ご苦労だったな、銀二、小雪。あとは俺がやる」

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