第29話 春の、うららの


 マリアライト邸の門の前に降り立って、女侯爵に取り次いでもらう頃には小雨が降りだしていた。


 クラウスが雨除けの為に張ってくれた防御壁の中で待っていると、門の向こうから紫色の髪の男の人が小走りに駆け寄って来て、私達に向かって深く一礼する。


「ダンビュライト侯、アスカ夫人、ようこそお越しくださいました。僭越ながらここから先は私、フレデリック・フォン・ドライ・マリアライトが母の元まで案内させて頂きます」

「ありがとう。よろしく頼むよ」


 紫の防御壁が私達を覆ったのを確認すると、クラウスが純白の防御壁を解いた。 

 そして先を歩きだしたフレデリック公子の後に続く。


(この人が、マリーの元婚約者……)


 顔立ちはさっき見た限り、かなり整ってた。カッコいいと言うより綺麗系。

 鮮やかな紫髪紫眼。センター分けの長く癖のない前髪はそのまま垂らしてるけど、後ろはしっかりリング状の髪留めで纏めていて、清潔感がある。


 ヒューイも似たような髪型だけど、あっちはゆるやかな癖があるし髪留めもしていないから大分印象が違う。

 あっちは清潔感がない訳じゃないけど、それ以上に色気が漂ってる。


 キリッとした目つきと眉は特に目を惹く。声も高すぎず、低すぎずで落ち着いた感じで印象がいい――


(……って、駄目駄目。友達の彼氏チェックモード入ってる)


 『友達の彼氏』チェックモード――友達の今後に大きく影響する男性をつい念入りに観察してしまう、ちょっと特殊な人間観察モード。

 でもこの人はマリーの彼氏ではなく、元カレである。


 彼氏チェック自体あまり気持ちよく思わない人も多いだろうに、元カレチェックされて喜ぶ人はまずいない。

 ついしっかり観察してしまった事を、心の中でマリーに詫びる。


 それにしても――妹の言葉を信じ込んでマリーみたいな良い子をフるなんて、一体どんな駄目男だ? と思ってたけど――


(この容姿と声と地位で、マリーと婚約解消してから3年間誰とも交際してないっていうんなら、そりゃ皆マリーの事忘れられないんだろうなって思うわ……)


 マリーも子作りせずに済んで良かったって安堵してたし、レオナルドだって間違いなくホッとしてるだろうから、自分の判断を後悔してる訳じゃないんだけど――もしこの人が本当にマリーの事を忘れられずにいるなら、ちょっと気の毒に思う。

 マリーと婚約してたって事は、妹が何も吹き込まなければ結婚してたんだろうし。


(……私があれこれ考えても余計なお世話なのは分かってるんだけど)


 今どんよりと空を覆っている雲のように、言葉にし難い罪悪感と気まずさが心を覆う。

 

 こうなったら早く用事済ませて、ここから離れよう――と思いながら、厳かな雰囲気漂う大きな洋館へと足を踏み入れた。




「ようこそお越しくださいました。ダンビュライト侯」


 紫を基調にした、落ち着いた雰囲気の応接間に足を踏み入れると聞き覚えのある声が響く。

 三人は座れそうな、広く高級感あふれるソファから立ち上がったのは、マリアライト女侯爵――ただ、侯爵裁判の時のは違って肩当てマントと軍服じゃない。

 スラッとした、紫色のシンプルながらも艶やかなドレスを纏っていた。


 何処からともなく響くハープの音色と見事に馴染んで、厳かで神秘的な雰囲気を放つ女侯爵に見惚れていると、目が合った。


「あの……」

「アスカさん、侯爵裁判の際は失礼な物言いをしてしまってごめんなさいね? ヴィクトール様が貴方を気にかけている事を先に知っていれば良かったのだけど……」

「い、いえ……! 罪状を一気に聞いたら私も死刑にされても仕方ないかなと思いましたし、減刑の嘆願書にも署名して頂いたそうですし、全然気にしていません……!」


 深く頭を下げられて慌ててフォローを入れると、マリアライト女侯爵はゆっくり顔をあげて微笑んだ。


「……ありがとう。噂に聞いたとおり、お優しい方のようね」


 マリアライト女侯爵の落ち着いた声と穏やかな笑みにホッとする。

 セリアの言う通り、この様子なら安心して良さそうだ。


「あの、この音色……ハープですか? 綺麗な音色ですね」


 少し緊張が解けた所で、部屋に流れる音について聞いてみる。微かに女侯爵の眉が動いた。

 何か不味い事言っちゃったかな――と不安が過った瞬間、


「…………アスカ様、来て頂いて早々申し訳ないのだけど、しばらくダンビュライト侯をお借りしてもよろしいかしら?」

「え……」

「離れに部屋を用意してあるから、話をしている間そちらで休まれると宜しいわ」


 挨拶も終えて早々に離れに誘導されて一瞬戸惑ったけど、マリアライト女侯爵はクラウスに用事があるのだ。

 私がいなきゃいけない理由はない。どころか、いると困るからこんな風に言われている。


 チラ、とクラウスの方を見る。目が『行っちゃうの?』と訴えている。

 どうしよう、ちょっと粘った方がいいのかな――と再びマリアライト女侯爵に目を向けると、


「安心なさって? 人の夫を魅了したりしないから……貴方のように多くの男を虜に出来る魅力もないし」


 これは――粘ると確実に機嫌悪くされる。


 人の夫を魅了する人を知ってるかのような言い方も意味分からなくて怖いし、続く言葉も嫌味か自虐か分からないし――ここは引くべきだと頭の中で警鐘がガンガン鳴っている。


「わ……分かりました」

「では、フレディ……アスカ様を離れに案内するように。ああ、お待たせするお詫びに祝歌を一曲弾いて差し上げなさい」

「承知しました。それではアスカ様、こちらへ」


 クラウスに「ごめんね」と小声で謝った後、セリアとロイを連れて応接間を後にした。




「申し訳ありません、アスカ様……来て早々何度も歩かせる事になってしまって」


 応接間を出た所でフレデリック公子に頭を下げられる。

 この人も母親が早々に私を応接間から追い出すとは思わなかったのか、かなり申し訳なさそうな顔をしている。


「いえ……大切な話を部外者に話をしたくないのは理解できますから」

「……そう言って頂けると助かります」


 フレデリック公子が小さく頭を下げた後、また前を歩きだした。

 あんまりジロジロ見るのもな――と窓の方に視線を向ける。


 小雨が降る広い庭園には濃い紫の花が一面に咲いている。

 晴れた日に来たら、凄く綺麗だっただろうな――と思う位見事な花畑の向こうに、ガゼボって言うんだっけ? 石造りの休憩所らしきものが見えた。


 館を出てガゼボとは逆の方に歩いていくと、薄紫を基調にした二階建ての洋館に辿り着く。

 どうやらこの建物が離れらしい。離れ、と言っても十分大きいけど。


「アスカ様。母から客室に案内する前に祝歌を奏でるように言われましたので、よろしければ一曲、私の演奏を聞いて頂けますか?」

「あ、はい……! 祝歌、一度聞いてみたいと思ってたので、是非」

「では、こちらへどうぞ」


 早々に追い出されてしまったのはともかく、セリアが私にも是非聞いてほしい、と推していた祝歌が聞けるのは嬉しい。


 領の一大イベントになる程の音楽って、どんなのだろう――とちょっとワクワクしながらフレデリック公子の後に付いていくと、通りがかる使用人らしい人達に頭を下げられる。


 母屋の方でもそうだったけど、すれ違うのは男の人ばかりだな――と思った所で大きな部屋に通された。


「ここでは招待客に音楽を聴きながら食事して頂けるよう、食堂と演奏サロンを兼ねているのです。すぐ準備しますので、座ってお待ちください」


 フレデリック公子が説明した通り、一見食堂のような広い空間の半分には深紫のテーブルクロスがかかった長テーブルが置かれ、高級感あふれる椅子が幾つも並んでいる。

 反対側に置かれたピアノ、オルガン、ハープ……見覚えがある楽器を横目に、背もたれ付きの豪華な椅子に座り、改めて周囲を見回す。


 見覚えのある楽器も多いけれど、金属板の代わりに透明な板が並んだ鉄琴みたいな物や、先端に指輪みたいなものが着いた指出しグローブ、どう使うのか全く見当がつかない透明な輪っか――初めて目にする物も多い。


 けど、ここにあるって事はどれも全部楽器なんだろうな――と確信できる位、様々な楽器が置かれていた。

 むきだしになっている物だけでなく、大小様々な長方形のケースや瓢箪型のケースもいくつも積まれている。


 瓢箪型のケースの中に入っているのはバイオリンかな――? と思った時、フレデリック公子が部屋の隅にあるガラス戸付きの本棚から一冊の本を取り出して、長テーブルの上に広げた。


 遠目からでも明らかに年季が入ってるのが分かる本を、公子が一枚一枚丁寧にめくる。途中、顔をあげた公子と目が合う。


 ジッと見つめてくるから(寝ぐせとか着いてるかな?)と髪を整えている間に公子は再び本に視線を戻した。


「……この曲がいいか」


 公子がそう呟いたのが聞こえた。どうやらあの古びた本は楽譜集スコアブックらしい。

 演奏する曲を決めた後、公子がケースが立てかけられている所に移動する。そして一つ瓢箪型のケースを持って来て、本の隣に置く。


 公子がケースを開けると、想像していた通りの物――バイオリンが出てきた。


「それでは……貴方の心が少しでも楽になる事を願って、弾かせて頂きます」

「えっ……」


 予想外の言葉に反応する前に、フレデリック公子はバイオリンを構えて弦を弾いた。


 バイオリンから聞こえてくるのは、まるで春を告げるような、優しく綺麗な音色。

 頭の中に、澄み渡る川と桜が鮮明に浮かび上がり、曲と共に心を優しく撫でていく。


 心にできた傷ごと温かく包んで、光ある方へと導いてくれるような音色に涙が出てきて、その感覚をが後押しして――一つ涙が零れ落ちると、どんどん涙が溢れて来て。


 セリアから無言で差し出されたハンカチを受け取り、涙を抑える。


 閉ざされた視界になおも広がる、青空と綺麗な小川、チラチラと舞う桜の花びら――優しく穏やかな曲調なのに、しっかりと心に響く。


 音楽が意思を持って私の心に寄り添ってくれるような不思議な感覚に演奏が終わっても、すぐに顔をあげる事が出来ず。


 心が落ち着いて、ようやく顔をあげられた時、自信に満ちた笑顔で私を見ているフレデリック公子と目が合った。


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