第4話 3
気がつくと、どこか遠くで工事現場の音にも似た大きな音が聞こえてくるような気がした。
その音ははじめはぼんやりしていたが、次第にはっきりとした輪郭を帯びてくるように聞こえてきた。
この音は……。
なんとなく思いながら、目を開ける。
いつも見てきたような、それでいて知らないような、白色の天井だった。
あの3Dプリンタの音か……。
ひとりごちりながら起き上がろうとするが。
力が入らないと言うか。
体が、手足がうまく動かない。
そうだった……。
僕は事故にあって義手義足手術を受けて退院した。
そして、あのユイリーとか言うメイド(介護用)オートマタがリハビリのお世話をするんだっけ。
と。
介護用なら……。
「ユイリー?」
どこにいるかもわからないまま、声を上げる。
「はいっ」
即座に声が飛んできたかと思うと、天井を遮る影が。
その影は、銀色の髪と、青い双孔、白い肌、ピンクの唇を持っていた。
その声と影が気配もなくあまりにも突然に飛んできたので、
「わっ!?」
思わず声を上げてしまう。
影の正体は……。
もちろんユイリーだ。
「おはようございます。悠人様っ。なにそんなに驚いておられているんですか……」
「い、いや……、別に……」
僕はかろうじて動く首を左右に振りながら、起き上がろうとする。
「それより体起こしてほしいんだけど……」
「わかりました、悠人様っ」
優しい声でそう答えながらユイリーは僕の体の下に両腕を差し入れ、そのまま起こしてくれる。
両腕の暖かさは人間そのものだ。ホッとするなあ。
そう思いながら急速に視界が変わっていき、白い天井から、いろいろなものが置かれている机や本棚などが見えてきた。
僕(が記憶を失う前の僕)の……、書斎だ。
「さて、まずはご飯を食べましょうかっ」
体を起こしてくれたユイリーは満面の笑みでそう問いかける。
「ああ、そうしよっか……」
曖昧な意識のまま、僕はそう応える。
すると、ユイリーは片腕を背中から脇へと動かすと、腕を脇に差し入れて僕の腕を担ぐ。
どこからか菫の匂いがした。
この香り、部屋のかな……?
ぼんやりと思いながら足をゆっくりとベッドから床に下ろす。
フローリングのぬくもりが足の裏に伝わる。
ユイリーの腕に助け起こされながら、起き上がり、床に立つ。
二本の足でたった瞬間。
ふらっと、足がふらつき、倒れそうになる。
「うわっ……」
また声を上げてしまう。
が、ユイリーが腕と体を使い、僕を支える。
そして巧みに体を持ち上げ、僕を立たせた。
「大丈夫ですかっ?」
そう言いながらユイリーが僕の顔を覗き込む。
その人間離れをした美貌を見たとき、僕の心臓が一つ高鳴った。
人間なのに人間じゃない。
オートマタなのにオートマタじゃない。
そんな、美貌。
僕がその顔に見とれていると、
「リハビリ始まったばかりですし、私がおはようからおやすみまで毎日の暮らしをサポートいたしますからねっ」
満面の笑みでそう言いながら、ユイリーは一歩足を踏み出した。
すると、不思議と僕の足も一歩前へと動く。
不思議だ。
事故で手足は義手義足になってうまく動かないはずなのに、ユイリーと一緒に動くと何故か動くような気がする。
まだゆっくりだけど。
普通の人間の介護なら、こんなにうまく行かないかも知れない。
これもユイリーのおかげだろうか。
そう思いながら、一歩、二歩、足を踏み出していく。
ユイリーも、同じ速さで、僕の隣を歩んでいく。
その歩みは、僕とユイリーのこれからの生活のようでもあった。
*
「食品用3Dプリンタで作成した新鮮かつ健康な朝食、いかがでしたかっ?」
「相変わらずプリンタの音がうるさかったけどね……」
あの台所の怪物はどうにかならんものか。
食後にユイリーとそう言い合い、僕は顔を洗ってもらったり歯を磨いてもらったりしたあとで。
僕は玄関前で、リビングへと続く手すりのついた廊下で、手すりにつかまり立ちしていた。
何をするかといえば、歩行訓練だ。
リハビリの歩行訓練だ。
将来的に再び一人で歩けるようになるために、まずは手すりやユイリーなどの補助歩行器具に掴まって歩く訓練である。
そのために、まずは廊下の手すりにつかまりながら歩く訓練をこれからするわけなんだけど……。
「悠人様っ、いつでもいいですよーっ」
廊下の反対側、リビングの入り口に立つユイリーが、はるか遠くに見える。
実際にはそんなに距離はないというのに。
歩こうとしても、足がうまく動かない。
ユイリーがこっちに来て、助けてくれたらなぁ……。
「まだですかー?」
「う、うんっ」
……。
「まだですかーっ?」
「今やるよー」
……。
「早くしないと昼ごはん抜きにしますよっ」
そう言ったユイリーの顔は、驚くべきほど無表情だった。
……。
怖っ。
……。
よしっ。
やるか。
恐る恐る、一歩を踏み出す。
体がぐらぐらとして傾く。
その前に足を進める。
腕に力を入れてなんとか踏ん張る。
なんとか立てた。
「うまくできてますよーっ。さっ、もう一歩前へっ」
廊下の向こうで、ユイリーが笑顔で褒めてくれた。
よ、よし。
続けて反対側の足を踏み出す。
同じようによろけながらも、さっきみたいにすかさず踏み出して手の力とともに体を支える。
「いいですよいいですよーっ。その調子その調子」
さらに明るい声でユイリーが励ましてくれる。
よ、よし、頑張らなきゃ。
そう思いながら続けて二歩、三歩と歩いてみる。
そのたびに体がふらつきながらもなんとか歩を進ませる。
僕が歩く様子を見て、ユイリーが、
「アンヨが上手、アンヨが上手、アンヨが上手……」
と声をかけてくれる。
僕は赤ん坊じゃないのに……。
心のなかで唇を尖らしながらも、歩くのはとりあえず止めない。
一歩、一歩、また一歩……。
手足が動かないなりにも一生懸命動かして、ゆっくり、ゆっくりだけど廊下を歩いていく。
そのさまは、これからの僕の人生のようにも思えた。
一歩一歩歩くごとに、ユイリーの姿が大きくなっていく。
その姿は、どこか僕の母親にも思えた。
母親……?
僕の、母親……?
誰、だっけ……?
そう思った瞬間。
ズキン。
一つ痛みが頭を駆け抜けた。
顔を思わず歪める。
と同時に。
僕の体は大きくゆらぎ、思わず、手すりを掴んでいた手を離してしまった。
あっ……。
声を上げた瞬間。
「あっ……!」
ユイリーも、びっくりした顔を見せ、その場から走り出した。
僕の体が倒れそうになった瞬間。
ユイリーは人間離れした速さで僕の側に駆け寄ると、そのまま僕を抱き止めた。
「悠人様っ、大丈夫ですかっ?」
頭のすぐ上から声がした。
そのまま僕はその柔らかいものから顔を離す。
「う、うんっ……」
その時。
ズキン。
また頭痛が一つ走った。
イテッ。
僕が顔をしかめると、
「悠人様、どうなされました……?」
ユイリーが目を細め、心配そうに僕の顔を覗き込む。
人間のものではない、銀の髪がサラリと揺れた。
僕は心配させまいと、
「ああ、うん、なんでもない」
僕は無理やり笑顔を作り、体を離そうとした。
しかしユイリーは、僕の腕を掴むと、
「もう、無理しないでくださいねっ。リハビリは始まったばかりなんですからっ」
と医者のような、看護師のような顔と声で僕に告げた。
しかしすぐに、いつもの明るい声に戻って、
「でも、この調子ですよ。さて今度は、この廊下を戻りましょう。何往復化していれば、脳のマイクロマシンコンピュータが義足の人工神経とつながって、歩き方を覚えるようになりますよっ。それを毎日毎日続けていれば、人間らしい歩き方になりますよっ。頑張りましょうっ」
そう励ましながら、僕を立たせてくれた。
そうかなあ……。
そうなってくれると、良いんだけど。
僕は内心でそう思いながら、
「うん、わかった。頑張るよ、ユイリー」
僕は笑みを返しながら、片手で手すりに掴まり、もう一度、来た道を見た。
明かりに照らされながらもどこか薄暗い道は、僕の過去のようにも思えた。
僕は、一体何者だったんだろう。
そう思いながら、僕はまた一歩、足を踏み出した。
*
しばらく廊下を何往復もしていると。
義足に慣れてきたのか、ユイリーの言う通り、人工神経が繋がってきたのか、最初の方よりずっとスムーズに歩けるようになってきた。
「……よしっ、端までたどり着けた。ふぅ……」
「最初の頃より、随分しっかりと歩けるようになりましたねっ。かなりの回復ぶりじゃないですかっ。これは数日経てば、手すりなしでも歩けるようになりますよっ」
「本当ぅ?」
「本当ですよっ。悠人様っ。私に搭載されている悠人様の義手義足動作チェックアプリでも、良好な動作を示してしますしっ」
「それだったら、いいんだけど……」
「さて、ひとまず一休みしましょうかっ」
「うん」
そうユイリーとやり取りしたあと、彼女に支えられ、リビングのソファに座らされた。
グラスに飲料用食糧プリンタで作ったという飲み物を注がれ、目の前に置かれた。
さらにそのそばに、食糧用3Dプリンタで作ったというお菓子が山程載った皿も。
それらを飲んだり食べたりしながら、ユイリーの配信動画サービスで適当な番組を流しつつ、休憩することにした。
ちょっと草と土が混じったような不気味な色をした飲み物だけど……。
「ユイリー、これ美味しいの?」
「健康と治療重視で作った飲料なので、ちょっと独特な味がしますけど、大丈夫ですよっ」
「本当ぅ?」
「本当ですよっ」
なんかさっきもこういう会話をした気がするけど……。
まあいいや、飲んでみよう。
ユイリーに持ってもらい、グラスに挿したストローで飲む。
ゴクッ。
……。
……。
なんか見たまんまの、草と土が混じったような味がする……。
飲めなくはないけど……。
空き地の味、というべきか……。
「どうですか、悠人様っ」
一口飲んだ僕の横で、ユイリーが満面の笑みで尋ねてくる。
怖いよ!? なんか怖いよ!?
そんな笑顔で尋ねてこないで!?
ここは見繕っておくか……。
「う、うん。美味しいよっ」
「良かった!」そう応えるなり、ユイリーが人間味のある破顔を見せて、ホッとした。
こ、これで良いんだろうな……。
僕もホッとした束の間。
「なら、ドンドン飲みましょうね〜」
ユイリーはグラスを手にして、僕の口へとストローを突っ込んできた。
や、やめて無理やり飲まさないでーっ!!
その時だった。
ピンポーン。
来客を知らせるチャイムが鳴った。
マンションなので、入り口の入力キーで部屋の番号を押し、居住者に知らせるタイプだ。
そのチャイムが鳴ったのがちょうど無理やり飲まされたタイミングで、思わず、
「ぐほぉっ!!」
とむせてしまった。
「だっ、大丈夫ですかっ!? ……はい、こちら須賀悠人ですが」
大丈夫なわけ無いだろ……。
ユイリーがそう言いながら、テーブルの上のティッシュで飛び散った空き地の味の飲み物を拭き取ると同時に、ホログラフィックスクリーンに訪問者の画像を表示する。
そこには、一組の中年夫婦の姿があった。
誰だ、この人達は?
「どなたですか?」
更に質問したユイリーはホログラフィックスクリーンを見ずに、飲み物を一生懸命拭き取っている。脳内のメモリでは見えてるのだろう。さすがのマルチタスクだ。
「あのー、悠人の父と母ですがー」
五十代〜六十年代ぐらいの年に見える二人の夫婦が、ホログラフィックスクリーンに向かって応えた。
……これが僕の父さんと母さん?
見覚え、ないな……。
僕が首を傾げていると、
「お父様の
とユイリーが言い、画面の向こうで自動ドアが開くモーター音がした。
賢人に、茉凜……。
それが僕の父さんと母さんの名前……。
……記憶にはあった。
でも、本当に僕の両親なのだろうか。
本当に?
釈然としないものをいだきながら、僕は二人がいなくなったホログラフィックスクリーンが消えるのを眺めるがままにしていた。
*
程なくして。
部屋の玄関のチャイムが鳴った。
「はーいっ」
ユイリーが立ち上がり、玄関の方へ小走りで向かう。
その姿は本物の人間の美少女に似て、愛らしかった。
その彼女が、僕のためにここにいて、僕をお世話してくれる。
……ふふっ。
ボクハナンテシアワセモノナンダロウ。
ぽわぽわぽわぽわ〜。
と少し気持ちが舞い上がっていると、
「あらあ〜。悠人〜?」
という、明るい中年女性の声が聞こえてきた。
同時に聞こえる、複数の足音。
その足音に、僕は振り向く。
この人が、僕の母さん……?
そしてリビングに入ってきたユイリーと二つの大きな影が、僕を見た。
その影に視線を合わせ、見上げる。
そこには、先程ホログラフィックスクリーン越しに見た一人の中年〜初老男性と、同じぐらいの年齢の女性が僕を見下ろしていた。
「悠人、元気だったか?」
「悠人、体の具合はどう〜?」
「父さん、母さん……」
その二人の問いかけに、僕はそう応えることしかできなかった。
何故か、何も言いたくない。何も言えない。
そんな気分だよ。
呆然とした僕に気づかないように、僕の母親だという女性は僕の体を上へ下へと目を動かして見渡す。
それから首をかしげ、言った。
「悠人、体が大きくなったわねー」
「……大きくなった?」
「ええ、事故に遭う前より大きくなっているわよ。いろいろ手術したみたいだからねえー」
「そう……」
そうなんだ。
僕の体は大きくなったんだ。前より。
僕は左腕を動かして手を見た。そして何度か広げて閉じるを繰り返す。
事故前のことは覚えてないけど、その事故で手術を受けて、僕はこうなったんだ。
……これが、僕?
その疑問が胸のうちに湧いたが、
「さあさあっ、立っているのもなんですから、ここにお座りくださいっ」
ユイリーが相変わらず屈託のない声と笑顔で、立っている二人にソファに座るように勧める。
と同時に、テーブルの周りにあった車輪付きの一人がけソファ二脚がひとりでに動き、僕の父親と母親だという人物の側へ動いた。
「あらありがとう」
とユイリーに会釈をして母親は優しく座ったが、父親は自分の側に寄ったソファを一瞬冷たい目で見て、どこか乱暴な座り方で座った。
……父さん?
二人が座ると同時にそれぞれのソファは動き、テーブルの前で止まった。
その間に、ユイリーや家にいるオートマタの子機二体が忙しく行き来して、二人の間に飲み物を置いたり、お菓子の乗った皿をテーブルに置いたりした。
そのさまは本物の人間が給仕しているようにも思えた。
「悠人、はい、退院祝いのお土産」
そう言いながらまだまだ若い顔の母さんは手に持っていた紙袋をテーブルの上に置き、一度立ち上がってその中身を出した。
そこから出されたものは、いくつかの箱だった。
その一つは黄色く、箱に「カステラ」と書かれていた。
カステラ……。
「カステラ……?」
思わずそう口に出すと、
「あら悠人好きだったじゃないカステラ。それも忘れちゃったの?」
と不思議そうな、残念そうな声で母さんがもう一度首をかしげて応えた。
ああ……。
そうだったっけ……。
ぼんやりと、底から掘り返される記憶。
本当にそうなのかな、と思いながら、カステラの箱を見ていると、母さんが、
「他にも悠人が好きなもの持ってきたのよー。ほらドーナッツー」
と今度は取っ手のついた箱を出してきた。
ドーナッツ……。
僕は、それも好きだったのか……。
積み上がった本やおもちゃの山を掘り返すように、自分の記憶を蘇らせようとする。
どことなく他人事に思える自分のこと。
……本当に、僕は一体何者なんだ。
そう思っていると、
「お母様、カステラお切りいたしましょうか?」
ユイリーがそう言ってカステラの箱へ手を伸ばした。
母さんは目を丸くしながら、
「あら本当〜? じゃあ、よろしく頼むわね」
と小さく会釈した。
それを肯定と取り、ユイリーはカステラの箱を手にするとキッチンの方へと向かっていった。
彼女がキッチンへと消えるのを見届けると、母さんは、
「悠人、いろいろなところを手術したけどどうなの? 手足を義手義足にしたというけど……」
もう一度僕の全身を見渡しながら尋ねてきた。
「まあ、見てのとおりだけど……」
そう言いながらぎこちなく両腕を上げると、母さんは身を乗り出し僕の両腕を見て、
「あら良く出来てるわねー。普通の手みたいよー」
ともう一度目を丸くする。
そんなに驚かなくてもいいのに……。
この「母さん」って人、よくびっくりする人だな……。
と思ったところで、ふと別の視線というか気配に気が付き、母さんの隣を見る。
僕が向けた視線の先で「父さん」だと言う人が静かにコップの中の飲み物を飲むと、タンッ、と強くテーブルに置いた。
この人……。
何が気に入らないのかな……?
内心首を傾げていると、
「悠人」
「父さん」は僕に顔を向けて言ってきた。
その顔は厳しかった。
「お前が入院している間、私達はお前に会わせてくれなかった。病院とお前が勤める会社がな。理由は聴いても応えてくれなかったが、今ならわかる気がする。……お前の会社は、手術と称してお前になにかしたんだ」
「……は?」
僕は脊髄反射的に応えた。
僕はなにかされたから記憶がないのか。
でも、そんなことで怒るなよ。
いいじゃんそれぐらい。
「賢人さん……、そんなこと言わなくても……」
隣にいる母さんが父さんの顔を心配そうに見る。
でも、と言う顔で、彼女は僕の方へと向き直し、僕に問いを投げかける。
「悠人、あなた別人みたいよ、どうしたの?」
……やっぱりきたよ。この問いが。
応えるべきなのかな。
僕は迷い、下を向いた。
……いや、答えよう。
そう心に決め、再び顔を上げる。
それから言葉を選び、ゆっくりと、噛みしめるように応える。
「ちょっと……、色々、忘れちゃって……」
その時、僕と両親の間をメイド服姿の少女が遮り、コトン、と机に皿を置きながら、
「悠人様は、事故で記憶を失っていらっしゃるんです……」
と、少し困惑気味の顔で会釈しながら僕の言葉の後を継いだ。
それを聞いた母さんは、
「かわいそうに……」
と捨て子を見たような顔で僕を見て、ソファから立ち上がり、僕の頭を手で撫でた。
しかし僕には違和感しかなかった。
記憶を忘れたのではなく。
記憶がない。
ような気がするのだ。
そんな僕の気をそらすように、
「さあ悠人様もご両親も、このカステラをお食べくださいっ」
と、ユイリーが僕と両親を、そんな話、どうでもいいですけどっ、というような満面の笑みで交互に見た。
そして最後にテーブルの上を見て、持ってきました、どうぞー、と笑って会釈した。
僕らがテーブルの方を見ると。
透明なテーブルの上には、切り分けられたカステラが載った皿が増えていた。
僕はユイリーにどこか救われたような気がした。
それを知ってか知らずかユイリーはやってきたピンクの髪の少女型オートマタに指示して、彼女が持ってきた小皿とフォークを僕らの前へと配膳した。
「さあ、召し上がってくださいませっ」
ユイリーが僕らを順々に見てそう誘う。
僕らはお互い顔を見合わせ、言われちゃったし、まあ、そうするしかないよね、という誘導されたような、諦めたような顔つきでフォークに手を伸ばした。
手を伸ばす前に僕は、
「ユイリー、ありがとう」
彼女にお礼を言った。
ユイリーは僕の言葉に、わずかに顔を可愛く歪めた。
そんなユイリーが可愛くて、僕も彼女に向かって微笑んだ。
そんなわけで。
僕が好きだったというカステラを食べようかな……。
と思って手を動かそうとした。
……。
……。
あ、あれ?
うまく動かないぞ?
さっきまでうまく動いていたのに。
どうしてなんだろう。
こらっ、動け! 動け!
自分の体にそう言い聞かせながら動かそうとしたけれども。
うまく言うことを聞いてくれない。
その時だった。
「悠人様、どうなされましたー? 腕が動かないんですかー?」
と、ユイリーが困り顔で僕を見つめてる。
どうなされたって……。
「ちょっと、突然上手く動かなく……」
言いながら腕を動かそうと悪戦苦闘している僕を見て、
「困ったお人ですねっ。こんなときこそ、私がいるのですよっ」
ユイリーは僕とは反対の動きで自分の腕を動かし、僕の小皿の前に置いてあったフォークを取った。
そして、そのままスムーズな動きでそのフォークをカステラの一切れに突き刺すと、
「私が悠人様のお口まで持ってきますねっ」
そのフォークを持った腕を僕の側まで持ってくる。
ユイリーは屈託のない笑顔で、
「はい、お口をお開けくださいっ。あーんっ」
僕の口の側までカステラを寄せる。
……両親(?)の前でこういうことやるのかよっ!?
恥ずかしいな!?
と内心思いながら、
「……あ、うん」
そう応えて、僕は口を大きく開けた。
口は腕と違って、スムーズに空いた。
それを確認すると、ユイリーは、カステラの角を僕の口の中へと差し入れた。
そのまま、口を閉じ、カステラを噛み切る。
……もぐもぐもぐもぐ。
カステラの柔らかい感触が歯を伝わり、甘い味が舌に伝わり、それらが脳へと届く。
この味、懐かしいな……。
心の奥の更に深く。
僕ではない僕のような、でも確かに僕が。
そうつぶやいたような気がした。
誰……?
僕が思ったその瞬間、間髪入れずに、
「美味しいですか? 悠人様っ」
満面の笑み、でもどこか表情のない空恐ろしいようにも思えるユイリーの笑みが僕の側できらめいた。
その笑みに、僕は応えなければいけないような衝動が襲ってきて、
「う、うんっ……」
口をモゴモゴさせながら首を縦に振る。
メイド服を着た介護用美少女オートマタは僕の返事を見て、
「じゃあ、もっと食べましょうねー」
と笑みのまままた僕の口へとカステラを差し入れる。
今度は、もっと深く。
って、一度にこんなに食べられないよっ!?
むぎゅっ。
口いっぱいに、カステラが放り込まれる。
介護用オートマタにしては過剰だよ!?
くっ、ぐるしい〜!!
「むぐーっ! むぐーっ!」
「あっ、すいません!」
僕のリアクションにユイリーが慌ててカステラを引っこ抜く。
そして、フォークごと小皿に置いた。
けほっ、けほっ……。
息が回復して、小さくむせる。
「すっ、すいません悠人様っ!」
ユイリーが側で平謝りする。
「こらっ、オートマタ! 悠人に何をするんだ! 殺す気か!」
僕の父親が憤怒の表情で立ち上がり、ユイリーに掴みかからんばかりにまくしたてる。
その姿に、僕はなぜかカッとなった。
そこまで言わなくてもいいだろ! このクソ親父!
「父さん! そこまでユイリーを叱らないで!!」
僕の叫びに、父さんは僕を見たまま動きを止めた。
幾ばくかの間のあと、
「ゆ、悠人……」
そう一言だけ言うと、父さんは力をなくしたように静かに自分の座っていたソファへ再び腰を下ろした。
しかしその顔には、納得いかんぞ、という表情がありありと浮かんでいた。
「父さん」、なんでそこまで怒るんだ?
ストレスで早死するぞ。
その顔を見て、母さんが父さんに手をやり、
「まあまあ、こういうの、昔の小説にあった、『萌えシチュ』というじゃなーい。ユイリーちゃんはちょっとやりすぎただけよっ」
そう言ってたしなめるように笑った。そして続けて、
「父さんも若い頃、そういう本読んでたでしょ、もうっ」
笑って父さんの膝を叩いた。
父さんは憮然としながらも、
「そ、そうだけどな……」
とだけ応え、ぷいっ、と横を向いた。
その二人のやりとりを見て、
「お父様お母様、本当に仲が良さそうですねっ」
ユイリーは僕に笑いかけた。
「う、うん……」
僕はそう応えたけれども。
僕は。
あの二人のこと、何も覚えていないんだよな……。
だから本当に仲がいいのかもわからねえ。
僕は、何も知らないんだ。
そう思うと僕の心は、孤独の海で満たされた。
その時、僕の口の中がまだカステラのカスとかつばとかで色々あるのに気が付き、なにかで流さなきゃと僕はテーブルの上にある飲み物の入ったコップに思わず手を伸ばした。
そして、コップを掴んで口元に持ってきたところで気がついた。
……腕が動く。
……なんでさっき動かなかったんだ?
そういう疑問をいだきながらも、コップを口にすると、
「あら悠人、腕動くじゃない? どうしたの?」
母さんが当然とも言うべき疑問を僕に投げかけてきた。
当然だよな。僕でも気がつくし。
僕は飲み物を飲んで口の中にあったものを喉の奥に流し込み、コップをテーブルに置くと、
「う、うん、どうしてだろうね?」
と自分でもワケガワカラナイヨ、という顔を見せた。
母さんはうーん、とちょっと考える素振りを見せて、
「そうね! 多分腕の調子が悪かったのよ! 義手とかは精密機器ですからねー。慣れないうちは、そういうこともあるんじゃないのー?」
と名探偵のような得意満面な顔で自答した。
僕はそうかなぁ、と思いながら、
「そ、そうかもね……」
誤魔化すようにもう一度コップに口をつけた。
……違う、そうじゃない。
慣れないとか、腕の調子が悪いとか、そういうのとは違うんだ。
もっとなにか……。
そう例えば、別の外部的要因とか。
例えば、操られている、とか……。
その時、僕の頭を痛みが走った。
つっ、つぅ……。
まただ。また起きた。
こういうことを考えると、すぐ頭が痛くなる。
どうしてだろう?
「悠人、どうしたの?」
僕の様子を見て、母さんが心配そうに見つめる。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと頭痛がするだけ……」
「まあ、事故の後遺症なのかしら……。早くなんでもなくなると良いわね」
「う、うん……」
僕はそう言いながら、自分の手でフォークを掴み、カステラを自分自身で食べる。
今度は何事もなくスムーズに腕が動いた。
その時、ふと思った。
今日、平日だよな。
父さんって……。
僕はよく噛んでカステラを食べた後、父さんの方を向いて尋ねた。
「父さん」
「何だ悠人」
「今日平日だけど、仕事はどうしたの?」
僕の問いに、父さんの表情は一気に硬くなった。
怒りすら感じられる表情だ。
いけね。地雷踏んだかな。
対爆発防御だ。
「仕事か」父さんは吐き捨てるように言った。「お前はそういうことも忘れてしまったんだな。ある意味、幸せものだ。お前は」
「賢人さん……」
母さんが心配そうに父さんを覗き込む。
「仕事なんぞ、家のオートマタにやらせている。というか、やられてしまっている。会社が私達にオートマタを購入させて、それに仕事をやらせているんだ。オートマタが給料を稼ぎ、そのお零れに私達人間が授かる。何という時代だ」
そうなんだ……。
僕は軽く衝撃を受けた。
いてぇ〜。覚悟してたけどいでぇ〜。
僕は記憶を失う前は仕事をしていたと言うから父さんもそうだと……。
僕がそう思う間も、父さんは忌々しげに言葉を続ける。
「今や人間の仕事はほとんどなく、オートマタやAIなどが、仕事を行い、その賃金を人間が受け取ることによって、人間は生きているんだ。ほんの数十年前には想像もできなかったことだ」
父さんは静かに怒り続けていた。拳を強く固めていた。
あ、やべえ。これは大爆発するぞ。
その静かにマグマのようにため続けていた怒りを、ゆっくりと静かに噴火させながら、父さんが言葉を続けた。
「この日本は、世界はAIに支配されてしまった。なんたることだ!」
父さんは言葉の噴石を飛ばして、どん、と拳をテーブルに叩きつけた。
そして、憎々しげにユイリーの方を見て、毒々しい言葉を投げつけた。
「お前はこんな女のオートマタにうつつを抜かしているようだが、こんな「モノ」は好きになるな!」
……。
…………。
出会ってばかりだけど。
僕を大切にしてくれる彼女が。
僕を大事に思ってくれる彼女が。
「モノ」、だって……!?
父さんの言葉に殴られた僕の頭に血が上る。
「こんな「モノ」」って……!!」
僕は立ち上がっていた。
こんなにスムーズに立てるとは、と思えるほどに。
そして無意識的に父さんに歩み寄ると、父さんの襟首を掴み、無理たり立たせる。
というか、片手でこの男の体を持ち上げていた。
こいつ……!
「ユイリーのことを、『こんな「モノ」』だって……!?」
自分でも驚くほど、ひどく冷静に、でも、空恐ろしいほどの声が僕の口の奥から響いていた。
持ち上げられた男は、宙吊りになったまま、
「ゆ、ゆうと……、や、やめ……」
先程の怒りを込めた言葉とは正反対の、情けない首を締められた猫のような声を喉から絞り出していた。
その情けない声に、僕は更に腹がたった。
お前、ああいうことを言っておいて……!
僕は腕に込める力を一層強める。
「やめない……。謝るまで、やめない……!」
男の顔がみるみるうちに青ざめていく。
このまま一思いに……!
さらに腕に込める力を入れようとしたときだった。
「おやめください! 悠人様!!」
部屋に、美少女介護オートマタの懇願の悲鳴が響き渡った。
ユイリー……。
彼女の言葉で、なぜか僕の腕の力が一気に緩んだ。
男の襟首を掴んでいた手も同時に放した。いや、放れた。
支えをなくした男の体は宙から落ち、ソファへと崩れ落ちた。
どさっ、と言う音が、重く響いた。
「けほっ、けほっ……」
何回かむせたあとで、男は、僕の父さんは僕を見上げた。
その両目は、恐ろしい怪物を見ているように、大きく広がっていた。
顔にも、恐怖の色がありありと浮かんでいた。
こいつが……!
僕が怒りの言葉を吐き出そうとした時、
「悠人様、お父上に乱暴はおやめください! 死んでしまいますよ!」
ユイリーが僕の体にしがみつくように僕を抑えようとする。
でも、でも……!
「でもユイリーをモノ扱いするなんて許せないよ! ユイリーは……」
「私は『モノ』ですから」
憤懣やるかたない僕を押し留めたのは、ユイリーの「言葉」だった。
「ユイリー……」
その言葉に、僕の全身から力が抜けていく。
なんで……。
力が……。
「なんで……」
体が後方へと傾ぐ。
それをユイリーが優しく抱きとめ、僕をソファへと座らせた。
ユイリーは僕を座椅子に座らせると、立ち上がって僕の方を見た。
そして、寂しげに笑いながら言葉を紡ぐ。
その言葉は、いつものユイリーと少し違っていた。
「私は高度研究実験試作機オートマタです。モノ以外の何物でもありません。更に付け加えるならば、私は外部サーバとの連動で動くヒューマンタイプインターフェースです。いわば「私」というものはこの体にはないのです。私に「魂」や「意識」、「感情」というものがあればの話ですが」
「……」
知ってるよ。
そう、言いたかった。
でも、心の奥底の何かがそれを邪魔した。
僕の思いを知ってか知らずか、ユイリーはその寂しげな顔のまま言葉を続ける。
「私がモノではない。そう思っておられることは嬉しく思います。ですが、他人にそれを否定されても、あのような真似はおやめください。……悲しいですから」
「ユイリー……」
先程の言葉とは矛盾した物言い。
それでも、ユイリーの言葉を信じたかった。
心があるモノ。そんなものがあったって、良いじゃないか。
僕はいつもと違う大人なユイリーの表情に、ただその一言を押し出すように応えるのが精一杯だった。
視界の片隅に、父さんと母さんの姿が入った。
父さんは崩れ落ちたまま、先程の恐怖一色に染まった顔そのままで僕らを見つめ、母さんはそんな父さんを支えるように彼の体に手をかけていた。
ふたりとも無言だった。
そんな二人にユイリーは向き直り、こう告げた。
「先程も申し上げたように、私は『モノ』です。その事実には変わりはありません。しかしそうであっても、モノを愛するものというのは古今東西存在しているのです。ピグマリオンのように。その王と同じ思いを、悠人様がお持ちであることを、賢人様も茉凜様もおわかりになってあげてください」
その姿は相変わらず寂しげに見えた。
それでも、これ以上僕を傷つけることは許さないという信念のようなものが、彼女の立ち姿には感じられた。
モノでしか、ないというのに。
心があるように。
ユイリーはさらに言葉を続けた。
「それに、オートマタをお嫌いだと言いますけれども、そのオートマタを仕事に使っているのはなぜですか? 必要でないというのであれば、使わなければいいのに」
「……」
彼女の矛盾を突いた言葉に、父さんは押し黙ってしまった。
しばらく経って、
「……今日はもう帰ろう。悠人が元気でいるのはわかったし、これ以上、ここにいる必要もないしな」
そう言って父さんはいきなり立ち上がった。
その言葉には悔しさが混じっているようだった。
へっ、ユイリーの悪口を言ったおかげだ。ざまあみろ。
「そんなさっき来たばかりだと言うのに」
「もういいだろ!」
そう言って大股で歩きながら、父さんは玄関の方へと姿を消していった。
「賢人さん! ……もう、しょうがないわね」
まったくもう、という顔を見せながら、母さんも立ち上がる。
そして、僕らの方を向き、
「悠人、ユイリーちゃん。お土産は置いておくから、ゆっくり食べてね。帰ったらまた後で電話するから。じゃ、またね」
そう言って、ごめんね、と言ってお辞儀をし、父さんの後を追った。
玄関の扉が開き、また閉じられる音がしたあと、室内には静けさが残された。
僕はユイリーを一度見て、下を向いて目を閉じた。
大きくため息を吐く。
一体。
彼女はモノなのか。
人型のモノ。
それに僕は介護されている。
でも、彼女は美しい。可憐だ。かわいい女の子だ。
彼女のお世話になって、何が悪いのか。
万能の道具、万能のモノを愛して、何が悪いのか。
そのようなものこそ、世の中には必要じゃないのか。
むしろ。
この世の中に、人間は必要なのかな。
人間の文明・文化が、人の形をしていて、人より優れたものにより造られ、動かされていくなら。
人間は必要じゃなくても良いんじゃないかな。
ユイリーのようなモノでも、良いんじゃないかな。
そんなふうに考えていたときだった。
「悠人様」
不意に肩に手が触れた。
顔を上げ、まぶたを上げる。
ユイリーの手だった。
細くも見え、太くも見える。そんな美しい指だった。
「お父様にあんなことを言われて、ショックですか?」
「……」
「それとも、私にあんなことを言われたからですか?」
「……」
「申し訳ありません。あれは、悠人様を冷静にするには必要な事実でした。さらに、お父様を説得するためには必要な言葉でした。だから、あえて申し上げたのです」
僕はもう一度顔を下げ、自分の両手を見た。
僕の父親だという人物を、締め上げたこの手。ユイリーに止めなければ、僕は彼を殺していたかもしれない。
ユイリーはそれを止めようとした。僕のために。だから、あんな事を言った。自分を否定した。
その事実に、僕は申し訳なくなった。
「ユイリー……。ごめん」
「いいのです。何度も繰り返すようですが、私はオートマタです。人に使われる道具です。その事実を私は理解しております。悠人様が謝る必要はないのです」
「でも……」
「さあ、昼食の支度をしましょうっ。美味しいものを食べれば、気分が晴れることでしょう。楽しい動画も見ると、更に格別だと思いますよっ」
更に続けようとした僕の言葉を遮り、ユイリーは僕の肩を一つ叩くと、軽やかな足取りでキッチンの方へと向かっていった。
同時にホログラフィックTVのスイッチが入り、楽しげな音楽とともに動画が表示される。
しかし僕の心は晴れなかった。
ユイリー……。
君はモノでも、いいのかい?
君をモノとして見ても、いいのかい?
僕はモノを、好きでもいいのかい?
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