第18話 間に合った話
かつてデヌアール城の城下に、一人の馬具職人が暮らしていた。彼は腕の確かな職人で、城の騎士たちが用いる鞍や手綱を整え、馬を戦場へ送り出すための道具を作ることで生計を立てていた。質実剛健な性格で、仕事場には革の匂いと鉄の音が絶えず響いていた。やがて彼は妻を娶り、息子を得た。小さな家の中に笑い声が満ち、職人は自分の人生にようやく温もりを見出した。
しかし、幸せは長く続かなかった。些細な諍いから妻は子を連れて実家へ戻ってしまった。妻の実家は城下でも名の知れた商家で、長男が跡継ぎを残さぬまま亡くなった直後であった。孫を連れ帰った妻は大いに歓迎され、迎えに来た馬具職人は冷たく追い払われた。商家にとって、孫は血筋を継ぐ希望であり、馬具職人は不要な存在に過ぎなかった。
職人は息子を忘れたことは一度もなかった。幾度も妻の実家を訪ね、門前で声を張り上げたが、追い返されるばかりであった。やがて官憲まで呼び出され、彼は「騒ぎを起こすなら牢に入れるぞ」と脅されるようになった。息子に会うことを諦めざるを得ず、十年の歳月が流れた。
ある日、職人は城下で仕事をしていた折、偶然にも成長した息子の姿を見かけた。背丈は伸び、顔立ちは少年から青年へと変わり、母方の家の衣服を身にまとっていた。思いがけない再会に職人は胸を震わせ、声をかけた。しかし息子は振り返り、嫌悪の色を露わにした。「必要な時にいつもいなかったお前など、父親でもなんでもない」と吐き捨てた。その言葉は鋭い刃のように職人の心を切り裂いた。
職人は気落ちして帰宅し、それ以降は仕事も手につかなくなった。革を裁つ手は震え、針を通す指は力を失った。やがて生活に窮し、仕事道具を売り払い、ついには路頭に迷うに至った。さらに十年が過ぎ、彼は浮浪者となり、城門の傍らで力なく座り込み、流れる人と馬車の群れを何とはなしに眺める日々を送った。
ある日のこと、城門から城内に入ってすぐの路地で騒ぎが起きた。職人は関心を示さず、ただ視線だけをそちらに向けた。そこではテイト伯に仕える騎士と思しき武人が若い婦人を殴りつけていた。人々は遠巻きに見ていたが、誰も止めようとはしなかった。職人もまた、心を失ったように無感情であった。
しかし、直後にその武人へ殴りかかった若い男性を見たとき、職人は驚愕して立ち上がった。棒を振るい武人を打ち据えているのは、紛うかたなき自分の息子であった。十年前に冷たく言葉を投げつけたあの息子が、今は怒りに燃え、婦人を守ろうとしていた。
騒ぎを聞きつけた他の騎士や従者らが駆けつける音が近づいてきた。職人は思わず飛び出し、息子から棒を取り上げて押しのけた。押された息子はよろめき、群衆の中に紛れ、武人に殴られていた婦人と共に姿を消した。後には血を流して倒れる武人と、その前に棒を持った浮浪者の職人だけが残された。
駆けつけた騎士らは職人を組み倒し、捕縛した。彼は「テイト伯に仕える騎士に狼藉を働いた罪」で首枷をかけられ、城門近くの辻に晒された。三日後には絞首刑になることが決まった。
首枷をはめられた職人は痣だらけで呻き、通りを行き交う人々から蔑みの視線を浴びた。唾を吐きかける者、顔を殴る者もいた。だが一人二人は彼の顔をぬぐい、水とパンを与えてくれた。その中に、先日武人に殴られていた婦人がいた。
婦人は涙を浮かべて言った。「あの日、助けてくださったことを忘れません。夫は見に行くなと言いましたが、どうしてもお礼をしたかったのです。」聞けば、その婦人は息子の妻であった。職人はしゃがれた声で答えた。「自分は息子に何もしてやれなかった。息子が困っていてもいつも間に合わなかった。だが、今回は間に合った。これで満足して死ねる。息子のことをよろしく頼む。」
婦人は驚いた。夫からは「父は死んだ」と聞かされていたからだ。事情を知り、ぜひ息子を連れてこようと申し出た。しかし職人は首を振った。「二人とも、ここにも刑場にも来ない方がよい。幸せを祈る。」
三日後、広場に人々が集まり、職人は首を吊るされた。群衆の中に息子の姿はなく、妻もいなかった。だが彼の心は静かであった。十年、二十年と間に合わなかった人生の中で、最後に一度だけ、息子を守ることができた。その思いを胸に、彼は息を引き取った。
空想寓話集 蟻島 @alishima
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