第17話 塔の遺産

エルモルの北、深い森の奥に、かつて一つの塔があった。

苔むした石の基礎に、灰色の石を積み上げたその塔は、時の流れに抗うように天を突いていた。

人々はその塔を「古き知の塔」と呼んだ。だが、それは遠い昔の話。今ではその名を知る者もほとんどいない。

塔には、ある魔法使いが住んでいたという。名は知られていない。ただ「塔の主」とだけ呼ばれた。

彼は人の世から遠く離れ、塔に籠もって古の知識を集め、書き記し、時に星を読み、時に風と語った。

その知は、王侯貴族すらも欲したという。だが、塔を訪れた者は誰一人として戻らなかった。

ある者は、病に苦しむ家族を救う術を求めて塔を訪れた。

ある者は、戦に勝つための秘策を求めて塔を目指した。

またある者は、塔の主を邪神の使いとみなし、討ち果たさんと剣を携えて森に入った。

だが、彼らは皆、森に呑まれ、塔に辿り着いたのかすら定かではない。

やがて人々は塔を恐れ、語ることをやめ、地図からもその存在は消えた。

森は静かに、塔を包み込み、時とともにその姿を覆い隠していった。

それから幾星霜が過ぎた。

ある年の春の終わり、夜空を裂くような光が森の奥から放たれた。

それは三日三晩続き、夜を昼のように照らし出した。

光はまばゆく、だが不思議と恐ろしさはなかった。むしろ、何かが終わり、何かが始まるような、そんな予感を孕んでいた。

村の者たちは恐れ、家に籠もった。だが一人だけ、その光に心を奪われた者がいた。

名をリオといった。まだ若く、森の縁に住む木こりの息子だった。

彼は幼い頃から、森の奥に何かがあると信じていた。

祖父が語ってくれた「塔の主」の話を、ただの昔話とは思えなかった。

「塔が呼んでいる」

リオはそう感じた。

三日目の夜、光が消えたその翌朝、彼は弓と短剣、水袋と干し肉を背負い、森へと足を踏み入れた。

森は深く、静かだった。鳥の声も、風の音も、どこか遠くに感じられた。

だが不思議と、恐怖はなかった。むしろ、何かに導かれているような感覚があった。

二日目の夕暮れ、リオはついに塔を見つけた。

それは崩れかけていた。上部は崩落し、蔦が絡まり、かつての威容は失われていた。

だが、確かにそこにあった。伝説の塔が。

塔の前に、一人の男が立っていた。

長い髪と髭は白く、衣は灰色のローブ。目は深く、星のように輝いていた。

彼はリオを見て、微かに微笑んだ。

「よく来たな、若者よ」

その声は、風のように静かで、だが確かに耳に届いた。

「我はこの塔の主。かつては知を求め、力を求め、多くを集めた。だが、今はもう……生きることに疲れた」

リオは言葉を失った。目の前の男が、あの伝説の魔法使いだというのか。

「三日前、我は塔の力を解き放った。長き眠りにつくために。

この身はもう、時の流れに抗うことを望まぬ。

塔の遺産は、そなたに託そう。使うも、捨てるも、好きにするがよい」

そう言うと、魔法使いの姿は、風に溶けるように消えた。

ただ、塔の扉が音もなく開いた。

リオは塔に足を踏み入れた。

中は静かだった。崩れた壁の隙間から光が差し込み、埃の舞う空間に、無数の書物と巻物、奇妙な器具や宝石が並んでいた。

それらは、まるでリオの訪れを待っていたかのように、静かに輝いていた。

彼は塔の中で数日を過ごした。

書物を読み、宝を袋に詰め、魔法使いの残した言葉を反芻した。

「塔の遺産は、そなたに託そう」

村に戻ったリオは、塔で得た知識と財宝をもとに、村を豊かにした。

病を癒す薬草の知識、作物を育てる術、星の動きから天候を読む技術。

人々は彼を「賢者」と呼び、やがて彼は王となった。

だが、リオは決して塔のことを語らなかった。

あの光の意味も、魔法使いの名も、誰にも明かさなかった。

ただ一つ、彼の王宮の奥に、崩れた塔の石が一つだけ置かれていたという。

それは、静かに語っていた。

かつて、森の奥に塔があり、そこに知を蓄えた魔法使いがいたことを。

そして、ある若者がその遺産を受け継ぎ、王となったことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る