第8話 霧降より来たりて
都に病が流行った年、人々は死を恐れ、祈りを捧げ、薬を求めた。だが、病は止まらず、日に百人が倒れ、十人が死んだ。
その頃、霧降山脈より一人の医師が都に現れた。名は知られていたが、誰もその素顔を見たことはなかった。医師は仮面をつけ、静かに病人の家を訪れ、薬を与え、手を尽くした。
医師の治療はよく効いた。多くの者が命を取り留め、都の人々は彼を「霧降の聖者」と呼んだ。
だが、病は収まらなかった。医師は昼も夜も病人に囲まれ、死の匂いに満ちた部屋で暮らした。やがて、医師の顔色は悪くなり、言葉も少なくなった。
ある夜、医師は一人の患者の死に立ち会った。若く、痩せた娘だった。医師はその死体を前に、ふと手を伸ばし、腹を裂いた。そして、肝を取り出し、口に運んだ。
それは、甘く、温かく、苦味の中に妙な滋味があった。医師は震えながらそれを飲み込んだ。
その味が忘れられなくなった。
それから、患者が死ぬたびに、医師は肝を抜き取り、食らった。誰も気づかなかった。死体は火葬され、医師は仮面の下で静かに笑った。
やがて、流行り病は収まった。人々は喜び、医師に感謝を捧げた。
だが、医師は満たされなかった。死にかけの者がいなくなり、肝を食らう機会が減った。医師は薬に毒を混ぜ始めた。少しずつ、静かに、誰にも気づかれぬように。
患者は苦しみ、死んだ。医師は肝を抜き取り、食らった。だが、毒は肝にも染みていた。医師の顔は崩れ始めた。皮膚は黒ずみ、目は落ち窪み、口は裂けた。
人々は医師の変化に気づいた。仮面の下から漏れる息は腐臭を帯び、声は低く、濁っていた。
ある日、一人の娘が医師の薬を飲んで死んだ。父親は不審に思い、役人に訴えた。
役人が医師の住まいを調べると、地下に多くの死体が隠されていた。腹を裂かれ、肝を抜かれた者たち。瓶に詰められた肝が並び、いくつかは干され、いくつかは煮られていた。
医師は捕らえられた。仮面を剥がされると、そこには人の顔ではないものがあった。皮膚は爛れ、目は赤く、牙が覗いていた。
「肝は、命の味だ。病の中で、私はそれを知った。人は死ぬ。ならば、その命を喰らって何が悪い」
医師はそう言った。
人々は医師を火焙りにした。炎の中で、医師は笑った。声は獣のようで、言葉はもはや人のものではなかった。
それから、都では病が再び流行ることはなかった。
だが、霧降山脈の麓では、夜になると、仮面をつけた鬼が人の家を覗くという噂が広まった。
その鬼は、病人の匂いを嗅ぎ分け、肝を求めて彷徨うのだという。
そして人々は、こう語り継いだ。
「霧降より来たりて、命を喰らいし者あり」
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