第7話 忘れられぬもの

ある村に、幼い子を連れた母親が祈祷師を訪ねてきた。子は突然、虚ろな目をし、言葉少なくなり、右の手足がほとんど動かなくなったという。医者に診せても原因はわからず、母親は村の外れに住む祈祷師にすがるようにしてやってきた。

祈祷師は、静かに子の目を覗き込んだ。子はじっと祈祷師を見返し、ぽつりと語った。

「もう一人のぼくが、ぼくに別れを言いに来たんです」

祈祷師は眉をひそめた。「もう一人の自分、とは?」

「ぼくの中に、ずっといたんです。ぼくと同じ顔で、同じ声で。でも、ある日突然、ぼくに言ったんです。『ぼくは行くよ。父さんと一緒に』って」

母親は驚き、顔を青ざめさせた。「父親のことは、もう忘れたはずです。あの人とは別れて、子も私を選んだんです。父のことは何も話さないし、思い出すこともないはずなのに…」

祈祷師は黙って頷き、占いの道具を取り出した。火を灯し、香を焚き、静かに問いを立てると、答えはすぐに現れた。

「父親は、数日前に亡くなっています」

母親は言葉を失った。祈祷師は子の手を取り、こう言った。

「この子の半身は、父の魂とともにある。父は死者の国へ旅立てず、子もまた、地上に留まりきれない。魂が裂けているのです」

祈祷師は、父が葬られた寺院へ母子を連れて行った。堂の奥にて、祈祷師は儀式を始め、父の霊を呼び出した。やがて、堂の空気が重くなり、灯火が揺れ、父の霊が姿を現した。

「子が一緒に行くと言って聞かないのです。わたしは死者の国へ行けず、子もまた、地上に留まれない。わたしが子を呼んだのではありません。子が、わたしを追ってきたのです」

祈祷師は深く頷き、父の霊と子と、子の半身とともに堂にこもった。母親は外で祈りながら待ち続けた。

三日三晩、堂の中では火が絶えず焚かれ、祈祷師は言葉を尽くして魂を繋ぎ止めた。子は時に泣き、時に笑い、時に父の名を呼んだ。父の霊は静かに語りかけ、子の半身は、時折、子の体から離れて宙に浮かんだ。

四日目の朝、祈祷師は子とともに堂を出た。子の目は澄み、右の手足はゆっくりと動いていた。

「父の霊は、ようやく旅立ちました。子の半身も、戻りました」

母親は子を抱きしめた。子は何も言わなかった。ただ、祈祷師の方を見て、静かに微笑んだ。

それからというもの、子は母親の前では父のことを語らなかった。だが、祈祷師にはよく話すようになった。父との記憶、もう一人の自分のこと、堂の中で見た夢のような景色。

子は二度と生気を失うことはなかった。右の手足も、少しずつ動くようになり、やがて走れるほどに回復した。

ある日、祈祷師は母親にこう告げた。

「この子は、父を忘れてはいません。忘れようとしたことで、魂が裂けたのです。人は、憎しみも悲しみも、忘れてしまえば消えると思いがちですが、魂は記憶を抱いて生きています。忘れることは、癒しではなく、切り離しなのです」

母親は黙って頷いた。子の手を握りながら、遠くの山を見つめていた。

その山の向こうに、死者の国があると、祈祷師は言った。

そして、そこへ旅立った者たちの魂は、時折、風に乗って戻ってくるのだという。

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