第9話 エウナガルの草

リーエンス地方の都市ルガの近郊に、エウナギの峠と呼ばれる場所がある。霧深く、岩肌が露出し、馬も足を取られるほどの難所だが、古くから交易路として使われてきた。

その峠にまつわる話がある。

ある年の初夏、若き旅人ホルンが峠を越えていたときのこと。霧の中、岩陰に倒れている男を見つけた。男は薬師で、峠を越える途中で崖から落ち、大怪我を負っていた。

ホルンは急いで駆け寄り、手当てを試みたが、男の傷は深く、すでに命の灯は揺らいでいた。薬師は静かに言った。

「助けようとしてくれて、ありがとう。だが、もう間に合わぬ。ひとつだけ、頼みがある」

ホルンが耳を傾けると、薬師はこう続けた。

「私が死んだら、オダイルの大樹の下に葬ってほしい。あの木の根元に、かつて病に倒れた息子を葬った。せめて、あの子の傍に眠りたい」

ホルンは頷いた。薬師は微笑み、静かに息を引き取った。

ホルンは峠を越え、オダイルの大樹を探した。それは谷間の奥に立つ、幹の太い老木だった。根元には小さな石碑があり、風に晒されながらも、誰かの名が刻まれていた。

ホルンは薬師の遺体を丁寧に包み、息子の眠る場所の傍に埋めた。土をかけ、祈りを捧げ、峠を後にした。

それから数日後、ホルンは再びその地を訪れた。すると、薬師を葬った場所に、見たことのない草が生えていた。葉は細く、青みがかった緑で、触れると微かな香りが立ちのぼった。

ホルンはその草を摘み、薬師の遺品の中にあった薬草の記録と照らし合わせた。どの書にも載っていない草だったが、試しに煎じて飲んでみると、疲れがすっと抜け、頭が冴えた。

その後、ルガの街で病が流行った。ホルンはその草を持ち込み、煎じ薬として配った。すると、病人たちは次々と回復し、街の人々は驚きと感謝を込めて、ホルンを讃えた。

草は「エウナガル」と名付けられた。エウナギの峠で見つかったことに由来する名だが、人々はいつしか「ホルンの草」とも呼ぶようになった。

その草は、薬師の命と息子への想いが土に染み、芽吹いたものだと語り継がれている。

今でも、オダイルの大樹の根元には、細く青い葉を持つ草が静かに揺れている。誰かが訪れるたび、風がその葉を撫で、薬師の声が聞こえるようだという。

「命は土に還り、想いは草となる。それを摘む者が、また誰かを救うのだ」

そう語る者もいる。

ルガの街では、今も病が流行ると、峠を越えてオダイルの大樹を訪れる者がいる。彼らは草を摘み、祈りを捧げ、命の巡りに感謝する。

そして、語り継ぐ。

「エウナガルの草は、死者の願いより芽吹き、生者を癒す。ホルンがそれを見つけ、我らに伝えた。だからこそ、この草はホルンの草と呼ばれるのだ」

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