第6話 トルバーンの赤布

トルバーンの荒野は、風が絶えず吹き抜ける土地だった。草は生えず、岩と砂と、ところどころに立ち尽くす枯木だけがある。商人はその荒野を越えて、交易の帰り道を辿っていた。

その日、商人は一本の枯木に、赤い布がくくりつけられているのを見つけた。風に揺れるそれは、荒野には不釣り合いなほど鮮やかで、近づいて触れてみると、滑らかで温かい手触りがした。

「妻への土産にしよう」と、商人は布をほどいて懐にしまった。

家に戻ると、妻が泣いていた。産まれたばかりの赤子が、狼に攫われたという。商人は耳を疑った。

「狼が、紅巾の代わりをもらっていくぞと言ったのです」

妻はそう言って、赤子の寝床を指さした。そこには、赤子の代わりに、赤い毛の束が置かれていた。

商人は、村の外れに住むユリーを訪ねた。ユリーはこの地方では名の知れた者だったが、誰も彼を何者と呼ぶかは知らなかった。ただ、困ったときにはユリーに頼る、というのが村の習わしだった。

商人は赤い布を差し出し、事情を話した。ユリーは布を手に取り、しばらく黙っていた。やがて、棚から小さな子犬を取り出し、布とともに風呂敷に包んだ。

「三日待て」

それだけ言って、ユリーはトルバーンの荒野へと向かった。

三日後、ユリーは戻ってきた。風呂敷の中には、赤子がいた。顔と腹以外の全身に、細く柔らかな毛が生えていた。商人と妻は驚いたが、赤子は眠っており、呼吸は穏やかだった。

「布は、死産した子に対する母狼の涙だ。取ってはならぬものだった。取れば、狼は代わりを求める。人の子を連れ去り、狼として育てるのだ」

ユリーはそう言って、赤子を妻に手渡した。

「この子は戻った。だが、毛はしばらく残る。やがて消えるだろう。狼の記憶も、薄れていく」

それ以上、ユリーは何も語らなかった。

赤子は成長するにつれ、体の毛は少しずつ抜けていった。三歳になる頃には、普通の子と変わらぬ姿になっていた。ただ、時折、夜になると窓辺に立ち、遠くを見つめていた。

その後、トルバーンの荒野の近くで、犬が混じった狼の群れが見られるようになった。人を襲うことはなく、遠くから村を見つめるだけだったという。

商人は、赤い布を火にくべた。布は音もなく燃え、灰は風に乗って荒野へと消えていった。

それが何だったのか、誰も知らない。ただ、トルバーンの荒野には、今も時折、赤い布が風に揺れているという。

そして、ユリーはその話を誰にも語らなかった。

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