0円の少女

虫野律(むしのりつ)

0円の少女

 僕の値段は百万円だ。

 男子高校生の平均はだいたい二億五千万円。つまり、僕はアウトレットにすらなれない粗悪品なんだろう。

 今のところ病気や障害はないけれど、そう遠くない未来に完治不可能な疾患に罹り、そしてあっけなく死ぬ。それが一番現実的なルート。

 今更どうこうということはないけれど、自分と同じくらいの年の人が能天気に笑っているのを見ると、憎たらしいような悲しいようなやるせない気持ちが胸の奥からじわじわとにじみ出てきて、少しだけ沁みる。


「どうした? 難しい顔してっぞ」


 終業式が終わり、明日から夏休みだ! と浮かれながら、ショートホームルームをこなしに担任が戻ってくるのを今か今かと待ち焦がれる教室の中にあって、その喧騒に交じることも、かといって席を立って逃げ出す気力も湧かなくて、机の傷をぼんやりと眺めながら暗いことをぐちゃぐちゃと考えていると、クラスメイトの実人みひとが話しかけてきた。

 僕は顔を上げて彼を見るけれど、すぐに視線を逸らした。


「何でもないよ」


「今日暇だろ? 帰りに遊びに行こうぜ」


 実人は変わっている。僕を構う。なぜかはわからない。


「ごめん、今日は無理なんだ。用事があって」


 今日は、じゃない。正しくは、今日も、だ──僕はいつも嘘をついて断っていた。


「──そっか」けれど実人は、不機嫌になることもなく、「じゃあ、また今度な」さらりと言った。


「うん、ありがと」


 何度も繰り返したルーティンのようなやり取り。実人は食い下がってこない。いつもあっさりと引き下がる。

 背を向けて自分の席に戻る実人をこっそりと見る。

 その頭の横にはシャボン玉みたいな半透明の球体が浮かんでいて、といっても3Dホログラムのようなもので触れられないのだけど、その中に彼の値段を示す文字が並んでいる。


『四億五千万円』


 世界──あるいは神と言ってもいいかもしれない──から僕の四百五十倍の価値を認められた人間、それが実人だ。生まれた瞬間から決まっている、けっして埋まることのない絶対的な命の格差。彼かれすれば、僕なんか虫と変わらないだろうに。

 それなのに、どうして僕に構うのだろうか。いつも不思議に思う。

 ──ガラッ。

 教室の引き戸が荒っぽい音を立てて開き、担任の男性教師が入ってきた。


「じゃあ、さっさと終わらせて、ちゃちゃっと夏休みにすっぞ」


 軽いなぁ、とあきれる僕と、さっすが先生! わかってるー! とでもいうように楽しげに笑う僕以外。

 巻き巻きのショートホームルームが始まった。







 独り、帰路に就いていると、駅の西口で少女とぶつかってしまった。


「ごめんなさい」


 一言謝罪して立ち去ろうとしたんだけど、少女を、そのシャボン玉擬きを見て、僕は固まってしまった。


『〇円』


 値段……〇円……? 何これ……?

 人間には必ず一円以上の値が付く。例外はない。無料というのはありえないし、実際見たことがない。それだけに少女の存在は異質だった。

 僕が絶句していると、心配そうに眉をひそめた少女が話しかけてきた。


「大丈夫ですか?」


 透明感のある声だった。その顔は人形のように少し冷たくもひどく整っている。なおさら〇円はおかしい。女性は特に、容姿の良さによる加点が大きいはずなのに、少女の値段には一切の加点がない。


「う、うん、大丈夫です。それじゃあ」


 彼女のことは気になるけれど、だからといって何の関係もない僕が首を突っ込むのはおかしいし、その気もない。僕は速やかに立ち去った。







 しかし次の日。

 夏休みの課題のことを、意識してすっかり忘れた僕が、駅前の本屋で文庫本を物色していると、


「また会いましたね」


 昨日の少女の声が僕の横顔に当たった。振り向けば、僕に笑いかけていて、思わずドキッとした。けれど、相変わらずの〇円表示を見ると、怪訝と不気味がその高鳴りを塗り潰す。


「……こんにちは」


 何と返せばいいかわからなかったから、挨拶以外の言葉が出てこない。実人なら違うんだろうな、と頭をよぎった。きっとウィットに富んだユーモアまじりに返す。


「はい、こんにちは」


 少女も挨拶を口にした。

 すると、


「……」「……」


 僕らの間に沈黙が落ちてきた。

 え、終わり? いや、全然いいんだけど、何か用があったんじゃないのかな。


「じゃあ、失れ──」


 いします、というその先に続く僕の言葉は、


「暇ならちょっと付き合ってよ」


 彼女の可憐な声に遮られた。

 返事を待たずに彼女は、僕の手を引っ張って歩き出した。

 手のひらに伝わる彼女の柔らかな熱に、先ほどのように、あるいは先ほどよりも激しく、心臓が取り乱す。

 

「どこに行くの?」僕は平静を装って尋ねた。


 彼女はちらと僕を振り返り、


「秘密」


 とだけ。

 変なの、と思う。別にいいけれど。たいした用はないし。それに、彼女のことは気になる。

 そんなことを考えていたら、


「ねぇ! 名前教えてよ!」


 彼女のほうから尋ねてきた。


「……れん


「私はメイ──夢を彩るで夢彩めい。よろしくね」


「……よろしく」


「わたしは十六──タメくらいでしょ?」


「君が高一なら、そうだね」


「──じゃ、タメだね!」


 うれしそうに声を弾ませた夢彩が、その直前に一瞬だけ言い淀んだように見えたのは気のせいだろうか、と思うけれど、もちろん問い質しはしない。

 夏らしく熱い日差しがチリチリと僕らの肌を焼いていく。

 でも、夢彩は気にしていないみたいだった。日差しを弾き飛ばすように笑っている。楽しそうだ。超低価格の僕に親近感を覚えているのかもしれない。

 

『〇円』


 何度見ても、夢彩の値段は〇円。

 当たり障りのない、核心に触れない会話。柔らかな羽でくすぐられるようなもどかしさを感じる。

 でも、聞いていいものか僕にはわからない。


「着いた」夢彩が足を止めてつぶやいた。


 ここって……。

 と看板を見上げる僕を、


「さぁ、行くよ!」


 と促して彼女は、その甘味地獄に突撃した。

 スイーツ食べ放題のお店だ。夢彩の目的地らしかった。


「いらっしゃいま……せ……えっ、れ、蓮? ええ??」


 店員の制服に身を包んだ実人が、僕らを出迎え、目を丸くした。僕と夢彩を交互に見つつ混乱している。

 けれど、すぐに立ち直っていつもの調子に戻り、


「付き合いがわりぃと思ってたら、こーゆーことだったんだな。彼女がいるならいるって言えよな」


 と訳知り顔でうなずいた。

 大いなる勘違いである。誤解を解こうとしたんだけど、夢彩に先を越され、阻止されてしまう。


「蓮の彼女やってる夢彩です。蓮の友達ですか?」


 悪ノリしすぎじゃないかな。


「ああ、蓮とはマブだぜ」実人はいい笑顔で嘘をついた。


「いつも蓮がお世話になってます」夢彩にも淀みはない。


 君たち、さっきから何なの?


「おう、世話してる」


「──あっ」


 僕は思わずそう洩らした。実人の背後に先輩らしき女性店員がまなじりを決して立っていたのだ。


「どうした蓮?」


 と聞く実人に、


「実人君! おしゃべりしてないで早くご案内して差し上げなさい!」


 と先輩の強い声。

 げっ、というように顔を歪めた実人は、しかし、というか当たり前なんだけど、


「あ、はい、サーセン」


 素直に謝り、速やかに僕らを窓際の席に案内した。 

 

「それではごゆっくり~」


 実人は去り際にきれいなウィンクをしていった。僕にはできない。やりたくもないけれど。


「いい人そうだね」夢彩が言った。


 実人がいいやつなのは知ってるよ。


「よっし! ではでは、戦闘開始!」


 夢彩が気合いを入れるが、僕は甘いものがそんなに好きではない。どちらかと言わなくても苦手だ。厳しい戦いになりそうだった。 







「うぅ……」


 気持ち悪い。せっかくだからとがんばって食べたら普通に具合が悪くなった。モンブランとフルーツタルトはもう一生食べたくない。


「甘いものが苦手ならお店に入る前に言ってよ」


「そんな暇なかった──うぇ」


「あーごめんて。怒んないで」


「怒ってはいない」


 ただ純粋に気持ち悪いだけだ。

 僕らはベンチに座っている。スイーツ店を出てすぐの所、表通りの脇にあるベンチだ。もしかしたら僕のような人への救済措置として設置されたものなのかもしれない。

 隣の夢彩を見る。本当にきれいな顔だ。スタイルもいい。これほどの美少女なら実人以上の値段でも不思議はないのに。

 夢彩は何か重い病気を患っているのだろうか? 余命幾ばくもないとか……。


「どうしたの?」


 見つめすぎたみたいだ、夢彩が訝しげに覗き込んでくる。


「ごめん、何でもないよ」


「そ」


 夢彩の値段の理由を知りたい。でも、聞いてしまったら、嫌われてしまうかもしれない。

 結局、この日はこのまま別れることとなった。







 それから僕と夢彩は何度も一緒に遊んだ。夏休みということもあって、時間はたくさんあったし、仮に時間がなかったとしても同じように過ごしただろう。

 僕は夢彩に惹かれていた。

 だけど、まだ夢彩の値段については尋ねることができずにいた。

 初めは好奇心から気になっていた。けれど、今は違う。重大な悩みを抱えていて、いずれ僕の前から消えてしまうのではないか、という心配をしていた。

 でも、だからこそ聞くのが恐い。聞いてしまったら今の心地よい関係が終わってしまうかもしれない、そう思うと言い出せない。

 だって、〇円という値段が持つ意味は軽くない。夢彩が自分から言い出さないのには理由があるはずだ。その何かが僕らの関係に修復不可能なほど大きくて深い亀裂を作るきっかけになってしまうかもしれない。


「はぁ」


 所詮は可能性、かもしれないの話。答えはわからない。それでもやっぱり考えてしまう。不安だから。

 そんなふうに上の空で歩いていたのが悪かったのだろう、いつか夢彩とぶつかった時と同じように、また人とぶつかってしまった。


「すみませ……ん……」


 ぶつかってしまった人に謝ろうとして僕は、やはり同じように絶句してしまった。


「いったぁ──気をつけてよね!」


 瓜二つだった。僕がぶつかった少女は、夢彩と同じ顔、同じ声、同じ体つき。

 でも、決定的に違うところがあった。


「五億……」


 この少女の値段だ。僕の五百倍の価値。夢彩とは……。


「そうよ! あなたは……え? 百……万、円……」


 僕を見る少女の目が、瞬く間に、指弾するものから哀れむものに変わる。これが普通の反応だ。慣れている。馬鹿にしてこないだけ、嫌悪してこないだけ、この少女は人間ができている。

 少女は近くの高校の制服を着ていた。学年章を見るに、僕や夢彩と同じ一年生らしい。夏休みなのに制服姿なのは、登校日だからだろうか。


「百万円で合ってるよ。それよりちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな」


 敬語にすべきかとも思ったけれど、同い年ならいらないか、と結論づけて素に近い口調で尋ねた。


「……何?」


 僕の突然の問いに、少女は訝しむ色を浮かべた。


「君に夢彩っていう姉妹はいる?」


 変化は顕著だった。少女は息を呑み、その視線が揺れる。何か知っているみたいだった。

 夢彩の知らないところで、こそこそと嗅ぎ回るのは少し後ろめたい。

 でも、この少女と出会ったのは何か意味があるんじゃないか、気障ったらしい言い方をすれば運命のような何かなんじゃないかって思う自分も確かに存在した。

 焦っていたのかもしれない。なかなか夢彩に聞けない自分に苛立っていたのかもしれない。そっくりの少女に出会ったことでその気持ちが溢れてしまい、初対面なのにこんな質問をしたのかもしれない──そうやって自分に言い訳する。

 しかし、少女の返答は僕の期待していたものとは違った。


「……知らない。それに、私は一人っ子よ」


「え……」


 じゃあ夢彩とは他人の空似……?

 いや、それは無理があるような気がする。同年代のそっくりさんがたまたま近くに住んでいる確率はどれくらいある? ありえるのかな、そんな奇跡的な偶然が。


「もういい? そんなに暇じゃないの」


 少女は木で鼻をくくったように冷たく言った。


「あ、うん、ごめん」


 でも、それじゃあさっきの反応はいったい……?

 茶色がかったセミロングを揺らし、逃げるように人混みに消えていく少女を呆然と眺める。やがて彼女は見えなくなった。

 納得はできないけれど、どうしようもない。これから夢彩と待ち合わせだ。切り替えよう。

 しかし──


「来ない……」


 夢彩は現れなかった。連絡も取れない。僕の恐れていたことが起きたんだ。僕はそう解釈した。







 僕の前から夢彩が消えてしまった。

 僕は夢彩に出会う前と同じ生活に戻っていた。彼女を捜し回ることもなかった。

 すでに学校は始まっているけれど、今日は創立記念日で休み、何をするでもなく自室のベッドに寝転がって天井を眺めていた。

 あれほど夢彩との別れを恐れていたのに、いざそうなってみると諦めの感情が僕の心を占拠した。これが僕という人間なのだと納得する一方で、ちりちりとくすぶる鈍い痛みが胸の奥にあった──鬱陶しい。消えてくれないかな。

 ──ピコン。

 鬱々としていると、誰かからメッセージが来た。見れば、実人からだった。


『よ! 元気か? 暇なら今から付き合ってくんね?』


 時刻は午後二時過ぎ。少し逡巡してから、


『わかった』


『お! マジか! 珍しいな笑。サンキュー!』


 何となく誘いに応じてみた。

 実人のことは嫌いじゃない。いいやつだとも思う。それでもいつも避けているのは、僕のくだらない劣等感のせいだ。そうだよ。夢彩に惹かれたのだって、自分より格下だと思ったからだ。僕はそういうしょうもない人間なんだ。

 最低だな。







 学校の近くのコンビニ前。


「うぃー」


 いかにもチャラい感じで実人が手を上げた。しかし、僕を見てすぐに真剣な顔になった。


「おいおいおい、どうしたんだよ? ひでぇ顔してっぞ。何かあったんか?」


「まぁそうかもね」


「……さては振られたな?」


 うっ、鋭い。

 溜め息をつき、首肯した。


「あっちゃーマジか、ドンマイ」


「いや、いいよ。納得はしてる」


 僕みたいなくだらない人間の、水溜まりよりも浅い底がバレてしまったのだろう。それだけだ。


「まぁまぁそう言うなって。とりあえず今日は遊びまくるか!」


 本当にどうして、実人は僕を気に掛けるのだろうか。


「……何で僕に構うの? 実人の周りにはもっとマシなやつがいっぱいいるじゃないか」


 実人がフリーズした。珍しいな。ちょっとおもしろいかも──あ、再起動した。


「はぁ。言うつもりはなかったけど、ちょっと今のお前はアレな感じだから教えてやるよ」


 アレって何だ。若いくせに年寄りみたいな物言いだ。


「蓮は覚えてねぇかもしれねぇけど、昔、俺の弟がお前に助けられてるんだ」


 たしかに、まったく覚えていない。

 僕が首をかしげると、実人は微苦笑を一つ零し、続けた。


「俺の弟は二十三万円の価値しかなかった」


「……あっ」


「思い出したか?」


 思い出した。

 何年前か正確には覚えていないけれど、僕が小学生のころのことだ。

 そのころから僕は孤立していた。値段百万円しかない、いつ死ぬかもわからない、あるいは人格、能力に大きな欠陥を持っているかもしれない僕に積極的に関わろうとする人は皆無だった。

 いつものように独りで下校していたら、泣きそうな顔の、でもそれを必死にこらえている小さな男の子と行き合った。


『二十三万円』


 それが小さな小さな男の子の価値のすべてだった。

 この世界は残酷だ。いかにかわいらしい見た目の幼子であろうと、低価格の赤の他人を助けようとか、関わろうという考えを持つ人はほとんどいない。

 たぶん迷子だったのだろう。話しかけた僕に返ってきたのは要領を得ない言葉だったけれど、直感的にそうかなって思ったのを覚えている。

 僕がしたことは、ただ男の子の手を引いて近くの公園に行き、そして二人並んでブランコに座っていただけだ。

 しばらくそうして緩く遊んでいたら、母親らしき女性と、僕と同い年くらいの泣いている男の子が現れた。迷子の男の子を捜していたようだった。

 ……? あれ?

 僕は思い至った。


「あの時泣いてたのって、もしかして──」


「そうだよ! 俺だよ! いいだろそれは!」


 赤面している実人を見たのは初めてのことだった。


「とにかく! お前は、お前が思ってるほど価値のないやつじゃねぇんだよ! 少なくとも俺にとってはな!」


 わかったか? と結んだ実人は、やっぱり四億五千万円の価値を持ってるんだなって、そう思う。

 ありがとう。少し足掻いてみるよ。


「ごめん、ちょっと急用を思い出した」


「はぁ?」


「次は僕から誘うよ。じゃあまたね」


 ぽかーん、としている実人を残して僕は、駆け出した。







 当てがないわけではない。

 夢彩とそっくりな少女のことだ。彼女は夢彩と無関係なふうなことを言っていたけれど、やっぱり信じられない。本当は何か知っているに違いない。

 その少女は高校の制服を着ていた。だから、その高校に行けば会えるはずだ。はっきり言ってストーカーの発想だけれど、せめて夢彩の口から理由を聞きたい。それで、自分を納得させる。

 だから、今だけは許してほしい。

 五億円の少女はすぐに見つかった。

 彼女の周りにはたくさんの人がいる。僕とは住む世界が違う。それこそ実人なら彼女と対等に付き合えるだろう。

 いや、その実人が僕も悪くないと言ったんだ。堂々といこう。


「あの、ごめん、少しいい?」


 僕が話しかけると、そっくりな少女とその友人らしき少女たちが、しんと静まり返った。少し罪悪感を覚えるけれど、構わず続ける。


「この前のことで少し話がしたいんだ」


 駄目かな、と続けようとした僕を遮り、友人たちが騒ぎ出した。


「ちょっとマイ! ヤバいって!」

「はぁ? 百万? 何こいつ」

「警察呼びますよ」

「何を勘違いしてるか知らないけど、身の程を弁えてくれない?」

「行こ。相手にしないほうがいいよ。危ないよ」


 さんざんな言われようだ。わかってはいたけど、あんまりにも予想どおりすぎて笑ってしまう。


「ひっ」


 笑った僕を見て、友人の一人がおびえた。

 彼女たちにとって僕は人間ではない。得体の知れない未確認生物が近づいてきたから、こんな反応なんだ。

 でも、申し訳ないけれど、僕も必死なんだ。少しだけ我慢してほしい。

 しかし意外にも、僕にとって色よい返事をそっくりさんから聞かされた。


「……わかった。みんなは先に行ってて」


 本当? こんなにあっさりと?

 僕の気持ちを代弁するように友人たちが反発する。


「ちょっと嘘でしょ?!」

「マイ! 危ないって!」

「お前も早く消えろよ」


 しかし、マイと呼ばれているその少女は、


「大丈夫。いいからここはわたしに任せて」


 と友人たちの制止を振り切って一歩前に出た。

 マイがこのグループのボスなのだろう、友人たちは強く逆らうことができないようだった。五億円の少女が持つカリスマのなせる業だろう。


「場所を変えるよ。行こ」


「うん」


 やや早歩きのマイの跡を追う。

 会話もなく歩いていると、ふと、マイが言った。


「この前はごめんね。いきなりだったからびっくりしちゃって」


 僕は驚いた。あの時のマイの反応は当然のものだと思っていたから。

 気にしなくていいよ。

 そう伝えると、マイは安堵したように口元を緩めた。そんな些細な仕草まで夢彩とそっくりで、僕の奥で寂しさがひりついた。







 駅前の大手カフェチェーン店、ではなく、表通りから一本入った細い道の奥にある、客のいない喫茶店にやって来た。レトロな趣。隠れ家カフェというやつかもしれない。

 マスターらしき初老の男性が、お冷やを持ってきた。


「わたしはカフェモカ。あなたは?」マイがテキパキと言う。


「……ホットコーヒーで」


「ミルクとお砂糖はいかがいたしましょうか?」


 マスターが聞いてくる。落ち着きのあるバリトンボイスだ。


「ブラックでお願いします」


「かしこまりました」


 マスターはカウンターの向こうに引っ込んでいった。

 ふと、差し向かいに座るマイが珍獣を見るような目で僕を見ていることに気がついた。

 急にどうしたんだろ?

 と思ったら、


「よくあんな土みたいなもの飲めるね」


 と来た。


「土って……」どうやらブラックコーヒーはマイにとっては土らしい。その感覚はちょっとよくわからない。「土を飲んだっていいじゃん」いや、よくはないんだけどさ。「それより──」


 本題に入りたい。

 僕の気持ちを汲み取ってくれたのか、マイはうなずくと、


「まずは夢彩と何があったのか聞かせて」


 僕は掻いつまんで事の次第を説明した──もちろん劣等感云々の不都合な部分は省いて。マイは静かに聞いていた。


「──僕はただもう一度夢彩に会って、彼女の口からさよならの理由を聞かせてほしいだけなんだ。それで、僕は君を訪ねた」


 僕がそう言って口を閉じると、マイはゆっくりと口を開いた。


「……ごめん、わたしにも夢彩の居場所はわからないわ。たぶん誰にもわからない」


 どういうこと?

 と訝る僕に、マイは、「推測になっちゃうけど」と断ってから、ためらいがちに語りはじめた。


「わたしの両親はね──」


 マイの両親は長い不妊治療の末に彼女を授かったらしい。その際、人工授精にしばしば起こる現象が彼女の両親にも訪れた。

 双子だったのだ。でも、それは珍しいことじゃない。中には三つ子や四つ子の場合も割とありふれているし、五つ子だってありえるそうだ。これは排卵誘発剤が原因と考えられている。

 そういうときはどうするかというと、減胎手術げんたいしゅじゅつというものをやる。これは文字どおりお腹の胎児を減らす手術だ。

 いくつかやり方はあるけれど、マイの母親が受けたのは、お腹にいる胎児に注射して心停止させることで数を減らすものだ。死亡した胎児は母体に吸収され、吸収されなかったパーツは出産の際に排出される。

 マイの母親は双子の出産に耐えられるほど丈夫ではなかった。だから仕方ないことだ。マイはそんなふうに言っているし、僕もそう思う。

 そこまで聞いて僕は、マイが言わんとしていることを察した。要するに、夢彩はその時に殺された胎児の亡霊である、とでも言いたいのだろう。だから誰にも居場所がわからない、と。

 正直、にわかには信じられない。でも──


「わたしは小さいころに夢彩と名乗る女の子に会ったことがある」


 マイの言葉を嘘と断ずることはできなかった。


「彼女は自分のことをもう一人のわたしだと言っていた。嘘だとは切り捨てられなかったわ。私にそっくりだったし、〇円という値段もありえない。何より、お母さんが昔から大切にしている人形、それをお母さんは夢彩と呼んでいるの。何かあるんだ、と幼心にもわかったわ」


 それは……何と言ったらいいか……。

 僕は冴えた言葉を見つけられない。


「その女の子は言っていたわ。『わたしは殺されてしまったもう一人のあなた』ってね。その時は意味がわからなかったけど、成長して、わたしが生まれた時の話をお母さんから聞いて、すべてが腑に落ちた」


 じゃあ夢彩の値段が〇円なのは──


「夢彩の値段は普通なら絶対にありえないよね?」マイは僕の目を見据えて尋ねてくる。


 僕は声を出さずに──あるいは出せずに──ただうなずいて答えた。

 マイは真剣な面持ちで言う。


「〇円というのは、生まれる前に、不都合だからと、いらないからと殺されたゆえの、存在を否定されたゆえの値段──そう考えると辻褄が合う」


 何だそれ、何だそれ。

 はっきりと言葉にされると、僕はムカムカするのを抑えることができない。別に僕は善人なんかじゃない。堕胎を悪いことだとも思わない。

 でも、だからって、その子を、夢彩を無価値とする世界にどうしようもない憤りを感じてしまう。

 夢彩は無価値なんかじゃない!

 そう叫びたい衝動が喉まで出て、けれど無理やり飲み込んだ。

 そんな僕に、マイは温かなほほえみをくれた。夢彩とよく似た、だけどやっぱりまったく同じではないその笑みは、僕の心のササクレを少しだけ取り除いた。


「君と夢彩の本当の関係性がどうだったかはあえて聞かない。でも、一つだけ言わせて」


 きれいなアーモンドアイが僕を見る。

 すべてを見透かされているようで、少し居心地が悪い。


「──夢彩を想ってくれて、ありがとう」


「僕は……」


 そんなにきれいなやつじゃない。夢彩は僕よりも安いから、興味を持った。劣等感を持たずにいられた。優しさを受け入れられた。好きになれた。それだけなんだ。僕は僕自身に優しくしていただけなんだ。夢彩のことをちゃんと想えていたわけじゃない──


「いいの。君が何を考えていようと、わたしも、たぶん夢彩も感謝してる──だから、泣かないで」


 僕が泣いている……?

 ぽたり、ぽたりとコーヒーに波紋が生まれる。

 何をやっているんだろ、僕は。

 どうしようもない自己嫌悪や罪悪感、そしてそれでもなお消えない寂しさでどうにかなりそうだった。


「失礼。お飲み物をお取り換えいたします」


 マスターが、冷めてしまった僕のコーヒーをさっと下げて、湯気の立つコーヒーを差し出した。


「温かいものが必要なときもございます。もちろんサービスです。お嫌でしたかな?」


 穏やかにそう言ったマスターを見る。優しげな顔つきだった。

 僕はかぶりを振り、


「ありが、とう、ございます」


 途切れ途切れに答えた。


「わたしのは?」マイが言った。


 マスターが虚を衝かれたように目をぱちくりさせた。


「……仕方ないですね」


「やった! ありがとうございます!」


 いい性格をしている。でも、少し笑えた。







 九月最後の日。

 僕は実人と並んで歩いていた。大型のショッピングモールの中にある映画館に向かっているところだった。


「蓮も変わったよなぁ」実人がしみじみと言う。「あんなに人を避けてぼっち街道を邁進まいしんしてたのに、誘ったら二回に一回くらいは応じてくれるようになった。成長だよなぁ」


 何だ、急に。その訳知り顔は何か嫌だ。

 だからというわけではないけれど、僕は否定的なことを口にした。


「そうでもないよ。人間、根っこのところはそう簡単に変わらないから」


 たぶん真理だと思う。


「またそうやって微妙にひねくれたことを言う」


「発言がひねくれてるのはしょーがないよ。性格がそうなんだから」


 その時、ショーウィンドウに愛おしい影が映った気がした。振り返って辺りに視線を走らせ捜すけれど、彼女はいない。道行く人々にも変わったところはない。

 けれど、


 ──ありがとう。またね。


 不意に聞こえたその声は、僕が求めてやまない彼女のもので、今一度見回すけれど、やっぱり彼女の姿は見当たらない。


「どうした? 急にキョロキョロして」実人が訝しむ。


「……いや、何でもないよ」

 

 こちらこそありがとう、と口の中でささやいて僕は、また歩きはじめた。

 僕は夢彩に感謝している。

 僕に恋を教えてくれた人だから。

 僕に自分を肯定するきっかけをくれた人だから。

 だから、世界のすべてが君を否定しても、僕は言うよ。

 この世界に、僕の前に現れてくれて、本当にありがとう。

 何度でも。

 ありがとう。







(了)

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0円の少女 虫野律(むしのりつ) @picosukemaru

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