第118話 唇
翌日の昼休み。
弁当を食べた後、Tシャツを部室に置きに行こうとすると、どこかへ向かおうとしている千歳の背中が視界に飛び込んだ。
慌てて千歳を追いかけたんだけど、千歳は勢いよく走りだしてしまい、その場に取り残される。
『また置いて行かれた…』
ため息をつきながら部室に向かい、ロッカーにTシャツをしまった後、なんとなくボクシング場をのぞいてみると、スカートの下にジャージを履き、一人で駆け足飛びをしている千歳の背中が視界に飛び込んだ。
千歳は俺に気が付かないのか、腿を高く上げながら駆け足飛びをしている。
「なんつー格好してんだよ」
そう言いながらベンチに座ると、千歳は手を止めて振り返った。
「トレーニング… 週4になったから…」
千歳は肩で息をしながらベンチに歩み寄り、置かれていたタオルに手を伸ばし、顔をゴシゴシと拭き始める。
「聞いた。 オーバーワーク気味だって?」
千歳は黙ったままうなずき、水を一口飲んでいた。
「だろうな。 毎朝休憩挟んで16キロだろ? 故障しないほうがおかしいっつーの」
千歳は言葉の代わりに、水を飲み始める。
水を飲む千歳の唇を見ていると、真っ暗な中、柔らかい物が唇に触れた感触が、鮮明に蘇ってきた。
触れたい…
もう一度、千歳の唇に触れたい…
思わず手を伸ばそうとすると、千歳は縄跳びを片付け始めてしまい、俺の手から遠ざかる。
その姿にイラっとし、呟くように切り出した。
「変な格好」
「仕方ないじゃん。 着替える時間ないし…」
千歳は背を向けたままそう言い切り、タオルを肩にかけて更衣室へ向かおうとしてしまう。
『置いて行くんじゃねぇっつーの』
千歳を追いかけていたんだけど、千歳は後ろを振り返ろうともしない。
苛立ちながら千歳の腕をつかみ、女子更衣室の横にある物陰に引きずり込んだ。
千歳を壁に押し付け、顔を近づけようとすると、千歳は顔をそらすばかりで触れさせようとはしない。
「…なんでキスした?」
近すぎるくらい近い距離で言ったんだけど、千歳は視線を逸らすばかり。
「俺言ったよな? 付き合ってるやつとしかしないって。 なんでキスした?」
無理やり視線を合わせながら聞くと、千歳は視線を逸らしながら、笑い飛ばすように言い放った。
「し… してないよ! 夢でも見てたんじゃないの?」
「…夢?」
「ほ、ほら! 寝てると夢なのか現実なのか、分んないことあるじゃん! たぶんそれなんじゃない?」
「…夢だったか、確かめていい?」
言葉がチャイムにかき消されると同時に、大勢の足音が近づいてくるのが分かった。
千歳はほっとしたような表情を浮かべながら、小さくため息をつくだけ。
千歳のおでこに唇を落とした後、黙ったままその場を後にし、人の流れに逆らいながら歩いていた。
千歳が言いきっていた、『夢』なんかじゃないのははっきりとわかる。
けど、本当にキスをしていたとしたら、なぜ千歳が嘘をついたのかがわからないし、千歳は誰とでもするような奴じゃない。
それに、以前だったら、腕をつかんだ瞬間、ボディに1撃を食らわせたはずなのに、今回は殴られることもなく、無傷で居られてる。
『なんかおかしいよな…』
不思議に思いながら教室に向かい、退屈な時間を過ごしていた。
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