第29話

               △△△△△


 時間はあっという間に過ぎて、紗雪と会う時間になった。太一は家に戻らず、紗雪と過ごした空き教室に身を潜めていた。

 久しぶりの空き教室。紗雪が学校に来なくなってから、太一は一度も空き教室を訪れようとしなかった。紗雪がいない空き教室を見たくない。この場所は、紗雪がいることで意味を持つような気がしていたから。

 でも、ようやく紗雪と会える。紗雪がこの空き教室に寄るかもしれない。そう思った太一は、空き教室で紗雪を待ち続けた。

 しかし紗雪は時間になっても来なかった。

 約束通り屋上に向かったのだろうか。太一は不安を抱えながらも、空き教室を後にした。

 闇に包まれた廊下に太一の足音が響く。突き当りにある階段を上れば、屋上は目と鼻の先。

 屋上への入口となるドアは、ドアノブのところが鎖で巻かれているはずだ。でもこれは先生達を騙すためのフェイク。鎖が巻かれていることによって、実際に鍵のかかっていないドアを、あたかも鍵の掛かったドアに見せかけている。生徒しか知らない秘密。秘密だからこそ、こうして屋上の出入りが簡単にできるようになっていた。

 階段を上り、屋上への入口であるドアまでやってきた太一はドアノブを見てほっとした。鎖が外れているということは、太一よりも先にこの場所に来た人がいるということ。太一はドアノブに手をかけてゆっくりと捻った。

 ドアが開いた瞬間、太一の顔に風が吹きつけられる。思わず手で風を遮った太一は、ドアを閉めて屋上の真ん中へと歩いて行く。


「紗雪。いるのか?」


 屋上の中央までたどり着いた太一は周囲を見渡す。しかし太一の視界に紗雪の姿を捉えることはできなかった。風が吹き荒れ、太一の耳元を騒がしくする。

 やはり紗雪は学校に来ることができなかったのかもしれない。紗雪の連絡を疑わずに信じてしまったことに、太一は後悔を覚えた。簡単に学校に来れるようなら、紗雪は学校を休まないはずだ。紗雪は家にいることを嫌っていたのだから。


「月岡君」


 風に乗って聞こえた声に、太一ははっと顔を上げる。辺りを見渡すと、転落防止の柵の辺りに人影が見えた。微かに届く光が、人型のシルエットを浮かび上がらせている。

 太一はその影に向かって真っすぐ歩いていく。声を聞いた瞬間、太一の心にあった大きな隙間が一気にふさがれた。


「さゆ――」


 ようやく紗雪の姿を捉えた太一は、紗雪の置かれている状況に言葉を失った。

 紗雪は転落防止の柵の外側にいたのだ。

 一歩間違えれば転落の恐れがある場所に、紗雪は平気な顔して立っている。


「久しぶり」

「……久しぶり」

「今日は来てくれてありがとう」


 危険な場所で笑みを見せた紗雪は、手すりを掴んだまま太一に頭を下げた。


「ずっと月岡君に謝りたかった。私個人の事情に、何も関係なかったあなたを巻き込んでしまって。本当にごめんなさい」

「べ、別に謝らなくていいって。それより話って何?」


 紗雪はゆっくりと顔を上げると、憂いを帯びた顔つきで話し始めた。


「私ね、学校に行けなくなってからずっと考えてた。どうして私って生きてるのかなって。月岡君は知らないと思うけど、私は小学生の頃からずっとイジメに遭ってたの。理由は私のお母さんが、同級生の母親を殺したから。次の日にはみんな私のことを無視し始めた。今考えると、親御さんに関わっちゃいけないって言われてたのかもしれない。でも、それが当たり前だと思う。人殺しの子供なんて、親と同じことをやりかねないと――」

「紗雪!」


 太一は紗雪の言葉を遮り、手すりを掴んでいた紗雪の手を握った。


「もういい。それ以上、言わなくて……俺は知ってる。紗雪の過去に何があったのか。紗雪のお父さんから聞いたから」


 視線を向けてきた紗雪は暫くの間、太一から目をそらさなかった。太一も何を話せば良いのかわからず、紗雪のことを見つめ続ける。


「なら、話は早いかも」


 紗雪は太一の手を振りはらうと、ゆっくりと太一に背を向けた。手すりから手を離し、空に浮かぶ月を眺めている。


「紗雪、何をしよ――」


 突然脳裏に浮かんだ光景に、太一は思わず言葉を失った。これから紗雪が何をしようとしているのか。想像したくない映像が太一の頭をよぎる。


「ちょっと待てって。まさか……」


 言葉がうまく出てこない太一に、半身だけ振り向いた紗雪がそっと囁いた。


「私……死のうと思う」


 紗雪の言葉が現実かどうか、太一にはもはや判断がつかなくなっていた。冷めた紗雪の声が風に乗って太一の耳に入ってくる。


「そうじゃないだろ。自分が何を言ってるのか、わかってるのか?」

「わかってるつもりよ。だって私は……生きてる価値なんてないってわかったのだから」


 太一は紗雪の言葉を全力で否定したかった。しかし否定したいと思う気持ちとは裏腹に、言葉が喉から先へと出てこない。

 そんな太一を横目に紗雪は言葉を紡いでいく。


「私はずっとボンドを否定したいと思ってきた。だけど否定することだけを考えてきた私の考えは甘かった。関係ない月岡君を巻き込んだのにも関わらず、否定することすらできていない。結局はボンドを否定するどころか、学校にすら通えない昔の自分に戻ってしまった」


 紗雪は漆黒の空を見上げると、そっと呟いた。


「罰が下ったんだと思う。散々、無関係の人を苦しめたのだから」


 そっと空に右手を伸ばした紗雪は、ゆっくりと開いた手を結んでいく。奇々怪々な行動をとる紗雪に、太一は何故だか見惚れていた。

 まるで紗雪が、空に浮かぶ星々を掴んでいるように見えたからなのかもしれない。


「マリンスノーって知ってる?」

「マリン……スノー?」


 唐突に出てきた知らない言葉に、太一は素直に首を横に振る。

 紗雪は結んだ手を自分の胸元まで持ってくると、マリンスノーについて解説し始めた。


「深海で降る雪のことを言うの。とても神秘的で綺麗な現象」


 胸元に持ってきた手を紗雪はそっと開く。当然、そこには何もなかった。それでも紗雪はずっと自分の手のひらを見つめ続けている。


「でも綺麗なマリンスノーの正体は、プランクトンなどの死骸。そう聞くとより一層、神秘的な感じがすると思わない?」


 虚空をただただ見つめ続ける紗雪に、太一は問いただす。


「何が言いたいんだよ、紗雪」


 紗雪の起こす一連の行動に、太一の理解が追いついていない。

 紗雪は何を伝えたいのか。今、何を思っているのか。


「失って初めて気づくことってあると私は思ってる。マリンスノーのように、死んでも誰かの心に何かを残そうとする現象。星だってそうなの。死んでも輝いて何かを残そうとする。だから私は思う。私が死ねば、お父さんの考えは変わるかもしれないって。お母さんが否定したかったボンドを、私の死をもって初めて否定できるのかもしれないって」


 ゆっくりと開いた手を結んだ紗雪は太一を見る。その真っ直ぐな視線を見てられなかった太一は、自分から視線をそらした。

 紗雪は相当な覚悟で死を決意している。それは紗雪のお母さんが否定したかったボンドの為だと。

 沈黙が続く間、太一は変な違和感を覚えていた。どこか胸の奥で何かが絡みついているような感覚。紗雪の言葉を、素直に受け入れることができていない自分がいる。

 どうしてそんなことを思うのだろうか。今まで起こしてきた行動を太一は振り返る。

 考えろ。考えなければ答えは出てこない。


「……だから死ぬのか?」


 ようやく言葉を放った太一の問いかけに、紗雪はゆっくりと頷いた。

 冷たい風が太一の頬を掠め、紗雪の髪をなびかせる。

 胸の奥で絡まっていた答えが、太一にははっきりと見えた。

 だからこそ、太一は紗雪に伝えないといけなかった。


「紗雪は間違ってるんだよ」

「間違ってる?」

「だって紗雪のお母さんは、ボンドの研究を続けてほしかったんだから」


 紗雪は渋面を作り、太一を睨むように見つめた。


「どうして……どうしてそんな嘘を吐くの?」


 紗雪の声は震えていた。次第に紗雪の目から涙が溢れ始めた。


「嘘じゃない。俺は森川先生のとこ――」

「これを見てもそんな嘘を言えるの?」


 太一の言葉を遮った紗雪は、胸ポケットから日記帳を取り出した。

 ホオズキのシールが貼られた日記帳。そのページを捲り、とあるページで紗雪は手を止めた。そして開いたページを太一に見せつける。


「これって……」


 太一は言葉を失った。そこに書かれていたのは、紛れもなく紗雪のお母さんが書いたと思われる文章だったから。


「私はこのメッセージがあったからこそ、ボンドを否定したいと思った。ボンドなんて、結局は家族を離れ離れにするものに過ぎなかったのだから」


 紗雪の言い分がようやくわかった。この日記帳しか見てなかったら、紗雪のお母さんはボンドを否定したいと思うしかない。

 どれくらい時間が経ったのだろうか。太一は屋上の入口へと視線を向ける。人が来る気配は全くない。当然だ。今は夜で、学校は閉まっている時間なのだから。


「これでわかったでしょ。お母さんはボンドを嫌っていたって。私を止めるために、嘘なんかつかないでほしい」


 紗雪はそう言うと、太一に背を向けた。


「駄目だ。紗雪」


 太一は咄嗟に柵を越えて、紗雪の隣に降り立った。そして直ぐに紗雪が落ちない様に、背中へと片手を回し、もう片方の手で柵を掴む。


「離して。お願いだから」


 小さくも必死に抵抗しようとする紗雪を、太一は力いっぱい片手で抱き寄せてから叫んだ。


「紗雪が死んだら、誰が優しかったお母さんを生かしてあげるんだよ!」

「――!」


 紗雪の抵抗が徐々に収まっていく。太一は深呼吸をしてから、思っていることを紗雪へと告げた。


「紗雪が死んだら、優しかったお母さんは完全にいなくなる。世間では人殺しの殺人犯だって思われてるんだ。それなのに紗雪まで死んだら、誰がお母さんの優しさを証明するんだよ」


 太一にはわからないことだった。紗雪のお母さんがどれだけ優しかったのか。

 でも紗雪を見れば、何となくわかるきがした。紗雪のお母さんは、その優しさで大きなものを紗雪にもたらしていたんだと。実際に紗雪の人柄は森川先生とは違う。森川先生自身も言っていた通り、紗雪は根っからの母親っ子だ。

 それがわかるからこそ、太一は紗雪に言いたかった。


「紗雪はお母さんのためにも、絶対に生きなきゃ駄目なんだ!」


 太一の胸の中で、紗雪は身体を震わせた。何かを必死に堪えるように、太一の胸に顔を埋めている。そして暫くして震えが止まった紗雪は、ゆっくりと顔を上げて太一を見つめた。


「どうして……どうして月岡君は私にかまうの? 私はあなたを騙した。酷いことをした。それなのにどうして」

「紗雪の彼氏だから」


 間髪入れずに太一は紗雪に告げる。紗雪は驚いた表情で目を見開いていた。


「私は……終わりにするって言ったはず」

「そうだな。確かに言われた。でも俺からは終わりにするとは言ってない。彼氏として、紗雪の罪滅ぼしを一緒にしないといけない」


 そう告げた瞬間、ドンっと大きな音が鳴った。音のする方へ視線を向けると、屋上の入口が開いていた。そして二つの影が、太一達の方へと動いているのが見える。

 太一はその影をみてほっと息を吐く。紗雪は訝しむように二つの影を目で追っている。

 徐々にそのシルエットがはっきりと見えてきた時、声が聞こえた。


「紗雪」

「……お父さん」


 直ぐに気づいた紗雪は、驚きを隠せない表情をしていた。月明かりが森川先生の顔を浮かび上がらせる。


「月岡が呼んだんだ。今日、屋上に森川が来るって」


 森川先生の後ろから現れたのは、もう一つのシルエットの人物、高野先生だった。


「先生。ここ禁煙でしたよね?」

「いいだろ、月岡。今日くらいは」


 煙草をふかしながら、高野先生は虚空を見上げる。


「月岡君……どういうこと?」


 当然、今の状況が理解できない紗雪は太一を問いただす。


「お父さんと話をして欲しかったから。だから高野先生に頼んで連れてきてもらったんだ。紗雪がずっとお父さんと話してないって聞いたから」


 茫然と立ち尽くす紗雪に、森川先生は柵まで近づく。


「紗雪……すまなかった」


 そして森川先生は柵越しにいる紗雪に向け、深く頭を下げた。


「私がいけなかった。紗雪のことを考えもせずに、紗雪にずっと重荷を背負わせていた」


 自らの罪を森川先生は吐露する。一方の紗雪は、表情を変えず森川先生に睥睨の視線を送っていた。当然だと太一は思った。森川先生は何もしてこなかったのだから、紗雪がすんなり許してくれるわけがない。

 森川先生が犯した罪は消えない。でも、今までの関係を変えることはできると太一は思っている。森川先生がここに来てくれたのは、紗雪と歩み寄ることを決めたからだ。病院ではもう無理だと言っていた。でも、何かを変えようと森川先生は一歩踏み出してくれた。逃げずに向かってくれた。

 後は逃げ続けてきた紗雪が、向き合ってくれるかどうか。


「それなら、もうボンドの研究に手を出さないで」

「……それはできない」


 森川先生の言葉に紗雪は目を見開くと、日記帳を突きつけた。


「これを見てもそんなこと言えるの? ここにはお母さんの字ではっきりと書かれている。ボンドは私達家族を離れ離れにする、麻薬のようなものだって」


 紗雪は書かれた文章を読み上げると、森川先生を睨んだ。

 森川先生は紗雪から視線をそらすと、暫くの間、虚空を見つめていた。何か考えているように太一には見えた。

 そして顔を上げた森川先生は、紗雪に告げる。


「そうだ。私は雪菜せつなと約束した。ボンドの研究を続けると」


 瞬間、紗雪は柵に足をぶつける勢いで身を乗り出した。


「約束って何? お母さんはボンドを嫌っていた。ボンドの研究に関わってほしくないって思いが書いてある。研究を続けたいからって、そんな嘘つかないで」

「それは違うってさ――」

「あなたは黙ってて」


 紗雪に釘を刺された太一は、口を結ぶしかなかった。

 紗雪は森川先生を睨み付ける。心の底から森川先生を憎んでいる、そんな顔つきだ。


「ありがとう、太一君。私がすべてを紗雪に話します」


 そう太一に告げた森川先生は、紗雪を真っ直ぐ見つめた。


「……紗雪に見てほしいものがある」


 森川先生が取り出したのは、ネモフィラのシールが貼られた大学ノートだった。


「ノート?」

「そうだ。このノートは母さんが刑務所に入った後、所内で書いていたものだ」


 森川先生は柵に近づくと、持っていたノートを紗雪へと差し伸べた。紗雪は動揺しながらもそれを受け取り、ゆっくりとノートを開いた。

 ノートには紗雪のことや森川先生のことが書かれている。そしてページの途中には、紗雪が間違っていると確信できることが書いてあるのを太一は知っていた。

 あの日。森川先生に会いに行った日に、このノートを見せてもらったから。

 だからこそ紗雪の話を聞いたとき、太一は紗雪の間違いに気づけた。

 今日森川先生を呼んだのは、紗雪と森川先生が家族として再スタートできるように。そう思って太一は森川先生を呼んだ。

 でも、今はそれだけじゃないことがわかる。紗雪の根本的な思い違いを解消できるかもしれない。崩壊していた二人の関係を、取り戻すことができるかもしれない。

 紗雪はページを捲っていく。紗雪の目には母親が書いた文章が映っているはずだ。そして、ふと紗雪の手が止まった。

 太一もノートを覗き込む。月明かりに照らされた文字が目に入る。

 そこには森川先生に向けて書かれた文章が、ぎっしりとページを埋めていた。紗雪は目を動かして、書かれた文章を黙読していく。


「……嘘……」


 紗雪が口に手を当てた。辿り着いてほしかった一文に、目を通してもらえたと太一は思う。

 ノートには、紗雪が信じていた母親の言葉とは真逆のことが書かれていた。


『これからも、ボンドの研究を続けてください。もう二度と不倫など起きないように』


 森川先生は病院で太一に言っていた。ボンドの研究を続けるのは、紗雪と有香の母親の願いでもあると。だから紗雪がボンドを否定しても、それだけは譲れない。問題はボンドの研究を続けているからじゃない。私が紗雪を放っておいたのがいけなかったんだと。

 だからこそ太一は紗雪にわかってほしかった。話し合えばわかることを、ずっとしてこなかった紗雪に伝えたかった。本当の家族は何でも話すことができる、かけがえのない存在なのだと。話さないままでいると、色々と掛け違えることがあるのだと。


「お父さんに聞きたいことがある」

「……何だ?」

「森川有香って知ってる?」


 森川先生は首を縦に振った。紗雪はノートに視線を移していた。ノートには森川先生が不倫したことが書かれている。おそらくその部分を紗雪は見たんだと太一は思った。


「ああ。有香は……私の子だ」

「そうなんだ……」


 目をつぶり、息を吐いた紗雪は空を見上げた。太一もつられて空を見上げる。丸い月が綺麗に輝いている。今日は満月なのかもしれない。その美しさに見惚れていると、森川先生がゆっくりと口を開いた。


「母さんは言っていた。紗雪を苦しめたのは私だと。だから紗雪にはもう苦しい思いをしてほしくないと。そのために私は母さんとの約束を守るために、紗雪に嘘をついた」

「嘘?」


 顔を森川先生の方に向けた紗雪は、次の言葉を静かに待った。


「私と母さんは離婚なんてしてない。最後の最後まで、私達は家族だったんだ」

 瞬間、紗雪の頬を一滴の雫が流れ落ちた。月明かりに反射して、その涙が綺麗に輝いている。


「紗雪を刑務所に来させないでほしい。そう言われた私は、離婚したと言えば紗雪がもう母さんの所に行くことはないと思った。だけどそれは逆効果だった。今考えれば、大好きだった母さんへの思いを強くするだけ。もっと紗雪のことを考えていれば、別の方法に辿り着いたのかもしれないのに。本当にすまなかった」


 改めて頭を下げた森川先生は身体を震わせていた。静謐な空間に、二人のすすり泣く音が聞こえる。

 これでよかった。そう太一は思った。お互い話し合って気持ちが通じ合う。それこそが本当の関係なんだと。

 隣で身体を震わせる紗雪の肩に、太一はゆっくりと手を置いた。


「初めて教室で二人きりになった日。どうして俺にかまうのかって聞いたとき、紗雪は言ったよな。罪滅ぼしって。最初から悪意があって俺を巻き込んだのなら、絶対にそんな言葉を言わないと俺は思う。紗雪はその言葉を守って、俺が苦しい時にいつも隣にいてくれた。だから今度は、俺が紗雪のそばにいてあげたいと思ってる」


 太一は紗雪と向き合う。涙で濡れた紗雪の頬を手で拭った太一は言った。


「明日から学校に来てほしい。どんなことがあっても、俺が紗雪を守るから」

「……うん」


 紗雪は身体を震わせながらも、ゆっくりと頷いた。


「さてと、お前らはとっととその場所から戻って来い。危なくて見てられない」


 今まで口を閉ざしていた高野先生に言われ、太一は自分達のいる所が如何に危険な場所だったかを思い出す。ここは六階。もちろん転落などしたら確実に死が待っている。今も足元のつま先部分が、空間へと飛び出たままだった。


「月岡君」


 顔を上げると、近くに紗雪の顔があった。あの日、放課後の教室で会った時以来の顔の近さに、太一は頬をあからめた。


「私は生きたい。月岡君が言ってくれたように、お母さんの為にも生きたいと思った。本当にありがとう」


 にっこりと笑みを見せた紗雪は、転落防止の柵を越えようと柵に足をかけた。

 瞬間、今まで静かだった風が急に強く吹き荒れる。紗雪の身体がよろめくのを見た太一は、紗雪の背中を支える。柵越しには森川先生が紗雪に手を伸ばしていた。

 危なかった。太一はほっと息をついた。

 その一瞬の気の緩みがいけなかったのかもしれない。

 今度は先程よりも更に強い風が、太一の身体を揺さぶった。

 風通しの良い屋上独特の風。昼間は比較的穏やかな風も、こうして夜になると裏の顔を見せてくる。風に煽られた太一の身体が、校舎とは逆の方向へと倒れていく。


「あっ――」


 声が続かなかった。太一は足場のない空間へと放りだされる。先程まで目の前にあった光景が、真っ暗な空間に切り替わる。頭を下げて顎を引くと、紗雪の姿が見えた。

 声は聞こえない。だけど紗雪が何か叫んでいるのが口の動きからわかった。

 無意識に太一は紗雪へと手を伸ばした。それに応えるように紗雪も太一へと手を伸ばす。

 しかし、無情にも太一の手と紗雪の手が触れることはなかった。


 ――俺は死ぬのか。


 瞬時に脳裏によぎったのも束の間、同時に起こった現象に太一は思考の全てを奪われた。

 太一の捉えている視界の先、漆黒の空で輝いていた一つの星が急激に光を放ったのだ。

 その光は衰えを知らず、空間全体を明るく照らして太一を一気に飲み込んだ。

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