6章

第30話

 生の匂いを強く感じた。

 一度は死を望んでいた人が、その苦しさを乗り越えた時に初めて出会う匂い。

 人それぞれ匂いの感じ方には差異がある。それは、その人が死から生へと近づいた時の環境に依存するから。紗雪にとってその匂いを例えるなら、少し汗臭いのに何故だか病みつきになる、とても温かくて包容力のある匂いだった。

 目を開ける。視界に天井が入る。暫くして、夢を見ていたんだと紗雪は実感した。ゆっくりと身体を起こし、窓のある方へと視線を移す。カーテンの間から、光が差し込んでいるのが見えた。

 何時だろう。スマホを手に取り、時間を確認する。

 午前六時過ぎ。

 紗雪はほっと息を吐いた。カーテンを開け、部屋に太陽の光を取り入れる。いつも以上に明るさを感じたのは、偶然ではない。紗雪が窓越しに空を見上げると、太陽と同じくらい輝いている星が空で光を放っているのだから。

 紗雪は身支度を整え、リビングへと向かった。いつも一人だった空間に、生活感漂う音が響いている。紗雪はドアを開け、リビングへと入った。


「おはよう、紗雪」

「……おはよう」


 まさか父とこうして挨拶を交わすようになるなんて。今までの父との関係を考えると、絶対に訪れることがないと思っていた日常なだけあって、紗雪の心は大きく揺れた。


「朝ごはん、作った。冷めないうちに、早く食べなさい。あと、お弁当も作ったから」


 父はそう言うと、半身を向けていた身体を戻して皿洗いを始めた。

 紗雪は席に座ると、改めて父の方へと視線を移した。何故だかわからないけど、父の背中が異常に大きく見える気がする。普段、見たことがない光景を目の当たりにしているからなのかもしれない。紗雪は用意されたお皿に視線を移す。こんがりと焼かれたトーストと一緒に、誰が見てもわかるくらい焦げている目玉焼きが目に入る。瞬間、自然と笑いが込み上げてきた。

 父が家事などできないことはわかっていた。今まで家のことに関しては、母が家からいなくなって以来、紗雪が一人でやってきたのだから。

 新しい関係を築く為に、父がしたこともないはずの料理をしてくれている。

 それがわかるからこそ、紗雪は心がとても穏やかになっていくのを感じた。


「お父さん、仕事は?」

「仕事はこれから行く。少し遅くなるって伝えてあるから問題ない」

「そう」


 トーストにバターを塗りつつ、紗雪はテレビへと視線を移した。丁度、スポーツコーナーが終わり、特集のコーナーへと進んでいく。画面がライブ映像へと変わり、中継先にいた女性キャスターがにこやかにしゃべり出す。


『近距離で超新星爆発が起こったと言われている一〇五四年以来、およそ千年ぶりに超近距離で起こったベテルギウスの超新星爆発。超新星爆発は大質量の恒星が、その一生を終える時に起こす、大規模な爆発現象のことを指すと言われており、爆発後はとてつもない明るさで暫くの間、輝き続けます。爆発が起こって二日目の朝を迎えますが、依然上空には太陽が二つあるかのように輝きを放っています』


 テレビカメラが空にある太陽を映す。そこには太陽とは別に、もう一つ光り輝くものが映し出されている。先程、紗雪が部屋から見た光景と同じ絵面だった。


「紗雪は身体に異常はないか?」

「うん……大丈夫」


 父がマグカップを持って、紗雪の正面へと腰を下ろす。父の眼差しに、紗雪は咄嗟に視線をそらした。初めての出来事に、身体が勝手に動いてしまう。

 父の顔を素直に見れなかった紗雪は、無意識にトーストにかじりついた。サクッと良い音と共に、口内には溶けたバターの味が広がる。


「そうか。もし辛かったら――」

「本当に大丈夫だから」


 紗雪は父の言葉を途中で遮ると、残りのトーストを一気に口に入れ、マグカップへと口をつけた。カモミールティー独特の林檎の香りが鼻を抜け、ほんのりとした甘さが紗雪の心を落ち着かせる。

 父がこんなにも気にかけてくれることが、紗雪はとても嬉しかった。こうして素直に父へと顔を向けられないのも、今まで父との距離感が分からずに生きてきたから。今まで父に対して憎しみの感情しか抱いてこなかった紗雪にとって、父の言葉はとてつもない愛を感じた。

 テレビではスタジオに映像が切り替わり、専門家の人が話を続けている。


『今回のベテルギウスの超新星爆発は、我々天文学者からしたら非常に興味深い現象でした。特に注目してほしいのは、ズバリ地球からの距離。一〇五四年の超新星爆発、現在でいうかに星雲。近年で言うと一九八七年に大マゼラン雲内で起きた超新星爆発。この二つは距離にしてそれぞれ六五〇〇光年、一七万光年離れています。この二つの超新星爆発に比べて今回のベテルギウスは、およそ六四〇光年という非常に近い距離で起こりました。今まで解明できなかった超新星爆発の謎が解明できるかもしれない。それくらい興味深い現象なのです』


 天文学者の力説に、進行役をしていた男性キャスターは口をぽかっと開けている。紗雪も何となくしか知らなかったので、キャスターの気持ちが何となくわかる気がした。


「でも、本当に地球に影響がなくて良かった」

「影響って?」

「ガンマ線バーストの影響だよ」


 父がテレビの方を見るよう、紗雪に伝える。紗雪は視線を父からテレビへと移す。丁度父が言っていた、ガンマ線バーストについての話題へと移行していた。


『ガンマ線バーストは、正直まだ正体がよくわかっていません。そのため我々の予想する一つの説では、超新星爆発の際に引き絞られたガンマ線ということにしています。今までの見解では、ベテルギウスの自転軸からおよそ二〇度ずれた場所に地球があるので、ベテルギウスがもたらすガンマ線バーストの直接の影響はないと言われていました。でも、あくまでそれも可能性。超新星爆発が起きた時の衝撃で自転軸がずれる可能性もある。だから今こうして我々が生きていることは、従来の予想通り目に見える形で影響なかったと言えると思います』 


 コメンテーターの人が、もし直撃していたらという話を天文学者に振った。


『直撃していたら、当然人類は滅亡します。そもそも地球はオゾン層によって守られている。ガンマ線バーストは、そのオゾン層をいとも簡単に破壊するんです。オゾン層が無ければ、地球は太陽に焼かれるので、当然地球上の生物は死滅します』


 実際に過去に起きた海洋生物の大量絶滅を例に、天文学者は活き活きと話を繰り広げている。テレビではもしもの話に、コメンテーターやキャスターが話に花を咲かせていた。

 死滅という言葉を聞いた紗雪は、気持ちを落ち着かせるためマグカップへと口をつける。

 二日前。紗雪は自ら死を望んだ。でも結果的に紗雪は生きている。

 強く生きることを望んでくれた人がいたから。

 大切な人の存在があったからこそ、紗雪は生きたいと強く思えた。

 空に今もなお輝き続けて、必死にいることを人類に伝えているベテルギウスのように。


「学校、行けそうか?」


 席を立った父が、紗雪の肩に手を置いた。そのずっしりとした重みが、紗雪の心に響く。


「……うん」


 ゆっくりと紗雪が頷くと父は笑みをみせ、シンクにマグカップを置いた。そしてハンガーにかけてあったスーツを羽織ると「行ってくる」と言って、そのまま家を出て行った。

 テレビでは依然、超新星爆発についての話が繰り広げられている。

 学校でも必ず皆が話題にする話。超新星爆発の話題は暫く学校でも続くだろうなと思いつつ、紗雪はテレビの声に耳を傾ける。

 もしもクラスメイトと超新星爆発の話になったら。

 そんな淡い期待が脳裏に浮かぶ。でもすぐに紗雪は、その考えを振り払うように首を振った。


「……何馬鹿なこと考えてるんだろう」


 楽観的な考えをしていた自分に、少し後悔を覚える。

 だって今の自分には、話しかけてくれる友人なんて一人もいないのだから。

 そんな環境を作ったのも、全て自分の責任。

 息を吐いた紗雪は、まだ騒がしいテレビを消してからゆっくりと席を立った。鞄にスペースを作り、父が作ってくれたお弁当を入れる。

 学校で幸せでなくても、今の紗雪には帰る場所がある。

 その場所をくれた、大切な人とした約束を守るために。


「行ってきます」


 ドアを開けた紗雪は、二つの輝く恒星の光を全身に浴びた。

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