溢れた先に・前編

 ※『扉の少女』本編終了後。

 勢いで書いたので「だ・である」調になっています。




 水が注がれた白いティーカップ。

 表面は波立ち、膨れ上がり、限界であることを強く知らしめている。

 それでもなお、どこからか水が注がれ――溢れた瞬間、目が覚めた。


 ◇◇◇


「はっ」


 知らず、息を詰めてしまっていたらしい。

 水面から顔を出した時のように冷たい空気を一気に吸ってしまい、ミモルは目を見開いてから軽く咳き込んだ。すぐさまエルネアの「あらあら、大丈夫?」という案ずる声が耳に届いて、背中に回された温かな手の感触が伝わる。


「さ、飲んで」

「あ、ありが――」


 抱き起こされ、差し出されたコップの水を見た途端、体が強張った。それはエルネアにも分かったようで、美しい顔を心配げに歪める。互いの鼓動が聞こえそうな至近距離で、金糸の如き睫毛まつげがカーテンの隙間から漏れる朝日を受けて煌めくのが見えた。


「ミモルちゃん?」

「ごめん、何でもない」


 そう、何でもない。

 ただ、水の夢を見た直後に現実でも水を見たから驚いただけだ。ミモルはもう一度礼を言って、改めてコップを受け取った。澄んだ水は何ごともなく、冷たく喉を通り過ぎていった。


 ◇◇◇


「水が溢れる夢、ですか」


 ここは天界。神々から力と地位を授かり、彼らが戻るまでのいわば「留守役」を務めることとなったミモルのである。


 あるのは幾つかの神殿と果てしなく続く原っぱや森、点在する花畑。いるのは数多の天使達と「使い」と呼ばれる神々の側近達、そして自分だけという静かな世界だ。


 その側近のうちの一人であるアルト――長い黒髪の少女は、神殿の傍らに建てられた白い東屋あずまやで、分厚い本を片手に立ち、表情の乏しい顔で呟いた。決して怒っているのではない。彼女の本来の主である知の神ディアルに似て、感情をあまり表に出さない性質なだけだ。


 ミモルは席に着いてアルトと同じ本をテーブルに広げ、今日の講義の部分を探しながら頷いた。右手がとあるページを持ったまま止まる。前はどこまで習ったのだったか、咄嗟に思い出せなかったせいだ。


 すると、頭の中で『289頁でしょ』と声が響いた。この体の同居人、リーセンのものだ。「そうだった、ありがとう」と応えて頁を繰ろうとしてアルトに呼び止められる。


「お待ちください。今日の講義は取り止めに致します」

「えっ!?」


 驚き過ぎて今朝と同じくらい固まってしまった。「真面目」や「秩序」が服を着ていると言って過言でないアルトが……講義を取り止める? 天変地異の前触れだろうか。それとも気付かないうちに何かを仕出かしてしまって、その叱責だろうか。


「落ち着いて下さい。心を波立たせてはなりません」


 予期せぬ展開に、今度は身を震わせ始めたミモルにアルトが小さく嘆息する。呆れられているのだろう。が、グザリと胸に刺さる前に、彼女の主と比べられては困ると開き直った。世界の創造神の一柱と自分とでは、あまりに年季が違い過ぎるのだから。


「それで結構です」


 褒められてしまった。漆黒の瞳の教師殿にしてみれば、教え子が平静を保つことこそが大事で、手段などどうでも良いのかもしれない。


「……それで、どうして今日はお勉強しないの? 私には覚えないといけないことが沢山あるんでしょ?」


 勿論、と言いたげにアルトは頷く。黒髪と膝下まであるワンピースの裾が僅かに揺れる。彼女は常にこの立ち姿で、新たな幼き主に世界のあらゆる知識を伝え続けてきた。町に暮らしている人間なら誰でも知り得るものから、人の身では知覚しえないものまで。


 ミモルは勉強が嫌いではなかったが、必死に食らいつきながらも、あまりの知識量に眩暈めまいを覚えることもしばしばであった。夢にまで出てきた時は、このままでは頭がパンクしてしまうのではと危惧したけれど、アルトに問いかけても「問題ありません」との返答だった。


「以前にもご説明差し上げたように、知識が御身に染み込み、蓄えるほどに貴女様の力となり、世界を保つ支えとなります。ご安心ください。今の貴女様であればどれほどの知識であろうと耐えられます」


 本当に安心させたいのだろう、珍しく薄く笑う。

 しかし、それは人間のままなら無理だったという意味なのでは、と思いかけ、止めた。考えたところで、それこそ意味がない。ミモルはもう「人でない自分」を選んでしまった。つまりは言われるがまま、与えられた知識をむさぼるしかないのだから。


「ですが、今日は講義より重要な案件が見受けられますので、そちらを先に処理致しましょう」

「重要な案件?」

「水が溢れる夢をご覧になったのでしょう? 知識が溢れることは御座いませんが、御力の方は違います。夢は予兆と見るべきでしょう」


 ゾッとして自分の両手を見た。人間だった時でさえ力を暴走させて周りを傷付けてしまったのだ。「神の力」が溢れてしまったら、一体どうなってしまうのか?

 想像すらもしたくない。


「……待って。そうならないように、なってるでしょ?」


 神々とて世界の命運を一人の少女に任せるにあたり、最悪の状況を想定しないわけがない。その証拠に、この身には幾重にも制御プロテクトがかけられている。そもそも、知識を得てから力が解放される仕組みになっており、知識を得る順序やタイミングも全て決められている。


 それでも、もしもの時は制御が全身を縛る……はずだ。幸いなことに、まだ経験はしていないけれども。それを正したつもりだったが、アルトの真意は違うところにあった。


「仰る通り、万が一の際はそうなります。私がお伝えしたいのは、それよりずっと手前の話です」

「ずっと手前? まだ大丈夫ってこと? けど重要な案件だって」

「重要なのは事実です。放置すれば進行する一方ですから」


 語り口はまるで病気の話だ。彼女なりの表現じょうだんだとしても深刻さしか感じられない。もっときちんと教えて欲しかったのに、アルトは「参りましょう」と問答を切り上げ、歩き出した。

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