第22話 ふたり

 人生で何度目かのダイビングに来たある日、僕はあいにしこたま怒られた。


 「すごい……怒ってたな」


 「ああ、あんなに怒っている亜衣ちゃんは初めて見たな」


 隣で昇介が煙草をふかしながら、しんみりとつぶやいた。


 早々と水着に着替えた僕らは桟橋で他のメンバーの着替えを待ちながら、二人でぼーっと海を見ていた。


 幸い、空はとてもよく晴れた夏の日だった。


 「何したんだ? お前」


 「いや、普通に着替えてただけだけど」


 「ふーん」


 「水着出した瞬間に、思いっきり怒られた」


 「なんか水着が変だったとか」


 「男物だったからかな?」


 「……それじゃねえかなあ」


 「いや、僕が胸を隠しても意味ないよ? むしろ、女性物を着た方が悪目立ちするんだ。それにどうせウェットスーツ着るから、あんま見えない」


 「まあ、……その理屈もわからんでもないが」


 現状、僕は亜衣に薄手のパーカーを無理矢理羽織らされて、上半身を隠されている。下は他に水着もなかったので、そのまま男性物の水着を着ているけど。


 「その理由もわからなくもないのですが」


 話している僕らの背後から、亜衣がひょっこりと顔を出した。僕たちは突然現れた亜衣に、ちょっと驚きながら顔を向ける。当然、亜衣も水着を着てダイビング前の装いだった。


 「それはそれとして、私的にはこころさんの大事な部分が人に晒されるのは許しがたいわけです」


 「ふむ、なるほど」


 したり顔でうんうんと頷く、昇介。


 「え、納得するなよ、昇介。僕、あんまりわかってないぞ」


 「お前は意外と、自分がどう思われているのかってところ鈍いよなって話だ」


 「イエス。ナイス翻訳です綿貫さん」


 「……はあ?」


 首を傾げる。二人で無駄に通じ合っている、訳が分からない。


 「逆の立場に例えていうとだな。今、ここで亜衣ちゃんが素っ裸になって、他人に見られたら、お前はどう思う? しかもそれを亜衣ちゃんはちっとも気にしてないときた」


 「え? …………嫌だな、なんか」


 「そういうことです! たとえ、こころさんが気にしてなくても、大事な人が他人に視線で晒されるのは気になるのです!!」


 「なる……ほど?」


 「微妙な理解だ」


 「むー……、まあ、そこは追々すり合わせていきましょう」


 亜衣は少しふくれっ面のままくるっと踵を返した。水着のフリルがふわっと揺れた。そんなやり取りで、可愛い水着だねとは言い損ねた。


 それからあいはとてとて走ると、クラスメイトの男女二人の所に走っていった。なんていったかな、想空と悠馬って言っていたかな、亜衣のクラスメイトらしい。そんな二人と合流すると亜衣は楽しそうに喋っている。クラスメイトを誘うと聞いたときは、もう友達ができたんだという驚きと亜衣の行動力の高さに思わず笑った。嬉しいようなどことなくもやっとするような、そんな微妙な感覚で僕は三人を眺めた。


 ん? なんでもやっとしてる?


 …………。


 ……。


 あいが僕以外と仲良くしてるから?


 それはなんと呼ぶんだっけ、嫉妬か。


 嫉妬はなぜおこる? でも僕の性別は。


 いや、その答えはもうーーーー。


 「……あんたら、見ない間に随分と様子が変わったわね」


 思考しかけたところで、声にひかれて振り向くと壮年の女性がいた。僕のカウンセラーとしての師匠でもある教授は、呆れた視線を僕らに向けていた。教授はすでにウェットスーツを着込んでボンベまで担いでいる。


 実に四年ぶりの再会だった。


 「そうですか? ……そうかもしれないです」


 「自覚があって結構、あんた大体自分のことには無自覚だからね。カウンセラーのくせに」


 教授はそう言ってふんと鼻を鳴らした。どことなくぶっきらぼうな様子はあまり変わらない。


 「それ、カウンセラーと関係あります?」


 僕は久しぶりに苦言を呈されて、つい、いけないと思いながらも反応してしまう。あんまり、教授に口ごたえしてもいいことなどないのだけれど。


 「おおあり。心理学かじったやつが自分の無意識にすら眼を向けれなくてどうするの。フロイトの基礎から教え直そうか?」


 「……教授、フロイトの精神分析は古いって言ってたじゃないですか」


 「あれはやり方が古いって話でしょ。今は瞑想なり、自律神経訓練法なりで自覚した方が早い。そのためにお祈りしろって教えたはずなんだけど」


 「はは、知ってます。言ってみただけです」


 案の定、口ごたえには倍くらいの言葉が返ってくる。でもこんなやり取りも随分と懐かしかった。


 「お前、ばあさんの前だと途端に子どもっぽくなるよな」


 「そう。しかも理屈っぽいひねたガキみたいになるのよ」


 「えー……ふふ。だって、これだけ色々言っても返してくれるのなんて教授くらいじゃないですか」


 僕がそう言うと、教授は酸素ボンベの準備をしながら、呆れたようにひらひらと手を振った。


 「反抗期やりそこねたガキみたいなこと言ってないで。準備手伝って」


 「え、実は僕本当に反抗期やりそこねてるんですよ。親に感情ぶつけるのに遠慮があったから。やっぱり教授、心読めてますよね」


 「だーから、何時も言ってるでしょーーーー」


 僕はしょうすけと顔を見合わせた。


 「「心の中身なんてわかったら人生もっと楽だ」」


 「……あんたらねえ」


 「いやあ、ばあさんの常套句だからなあ」


 「タイミングわかってきたよね」


 「ったく、はぐらかしやがって。いいから運びなさい」


 「「はーい」」


 教授の手に持たれている酸素ボンベを二人して受け取って担ぐ。こうしていると、おばあちゃんとそれを労わる二人の若者みたいだ。まあ、教授はおばあちゃんっていうにはいささか我が強くて、労わられるには足腰も見た目もしっかりしすぎているけれど。


 うん、懐かしいね。色々と。


 「で、あの子達なんなの?」


 「え、えーと……依頼者のその…孫……とその友達で……」


 「……後で詳しく教えなさい」


 「はい……」


 「ははは」


 「ところで、綿貫。あんたら、今回妙に羽振りがいいけど、その金どっから出てんの。あんたはともかく、篠原はそんな高給取りじゃなかったでしょ。というか、あんたの事務所もだいぶ零細事務所だったはずだけど」


 「……ははは」


 「……後で……じゃ、だめね。いますぐ詳しく吐きなさい」


 「「……はあい」」


 僕と昇介はボンベを持ったまま、ため息をついた。


 といっても、まさか人を殺してましたとは言えないので、真実は告げないままにこの場を乗り切らないといけないのだけれど。


 二人して顔を見合わせる。どうする? お前が言えよ。やだよ。そんなアイコンタクトを交わしながら。


 はてさて、どうなることやら。


 まあ、でもこういった悩みを抱えられるだけ平和だということでもある。


 後は、伝えられることを伝えるだけ。


 「色々あったんです」


 「ほんと、色々」


 「答えになってないわよ」


 「「ははは」」


 乾いた笑いで誤魔化す。教授は振り返って、僕らの顔をしばらく眺めた。それから軽くため息をつく。


 「ま、表情が明るくなっただけましか」


 そういって、教授は踵を返した。質問は終わりみたいだ。


 「まったく四年も連絡よこさないで。……あんま心配かけないこと」


 「はあい」


 怒られているのに、笑みがこぼれてしまうのはどうしてだろうね。


 もうこの人と笑い合える瞬間なんてこないってどこかで諦めていたからだろうか。


 この人に教えてもらったことがようやく実を結びかけていることが嬉しいのか。


 「さ、そろそろ船が出るよ。あの子どもらに声掛けてきなさい」


 「はい」


 顔も合わせないまま、僕は踵を返す。


 振り返った時に昇介が妙にやさしくてどこか意地悪い笑みで僕を見ていた。


 なんとなく教授も笑っている気がした。顔は見えない、心は解らない、でも、そうなんとなく。そんな気がした。 


 「そーいや、お前、悩み事相談でもすりゃあいいんじゃないか?」


 「うん?何の話なの?」


 「いーえ、なんでもないです」


 「……いいのか? あいちゃんとのこと聞かなくて」


 「一回、聞いたことあるからね。何回も聞くなって怒られちゃうよ」


 「はあ? いつ聞いたんだよ」


 「初めてちゃんと話したとき。


 「……? 私、そんなこと言ったかしら?」


 「ええ……」


 「っぷはは、まあ、いいか。お前がそういうんなら、なんか答えが出たんだろ」


 「うん、まあね」


 「よくわからんが、ならいいんじゃない。はやく呼んできなさい」


 「はーい」


 僕は子どもたち目掛けて、あいとその友達目掛けて軽く走り出した。


 ---------------


 「そらー、大丈夫?」


 「う、うん……」


 「いやー、なんとなく漆原って船弱そうだなとか思ってたけど、まじでそうかあ」


 「うっさい……」


 私たち高校生三人組は、若干船酔いし始めたそらを連れて看板に出ていた。船はそんなに速く進んではいないけれど、どうも揺れがきつかったらしい。よしよしと私は青白い顔をしたそらの背中を撫でる。


 「そらってなんというか、何でもずけずけ言うぞーって感じなのに、色々としんどいこと多いよねえ」


 「基本、漆原は弱点だらけだからな。ガラスの剣だ。辛い物ダメだし、苦いものダメだし、虫もダメだし、ホラーダメだし、3D酔いもするしーーーー」


 「さらっと、人の弱点公開しないで……うぇ」


 「大丈夫?」


 「んー、しばらくほっといたら回復するから。すぐ折れる割にすぐ復活するのが漆原のいいところだ。ストックがいっぱいある」


 「誰のメンタルが極細ポッキーですって……?」


 「そこまで言ってないよ……」


 そんなそらを挟んで私たちは、移り行く海を眺めた。岸が遠くなって綺麗な蒼色の海が視界に広がっていく。


 いい天気だ。日差しと風が心地いい。船のエンジン音に背を任せながら、ふーと息を吐くと心が緩む感じがする。



 「そういや、あの心愛さんってのが、亜衣の恋人なん?」



 ゆうまが何とはない風に、でもいつもより少し落ちついた声でそう問いかけてきた。


 どくんと心臓が打たれた。


 ゆうまの顔を見てみるけれど、特に他意とかはない感じでシンプルに疑問を呈しいるみたいだ。


 正直、答えに窮する。そうだとも、違うとも言えない。


 少し迷って、言えないことをそのまま口にする。


 「うーん……うまく言えない。なんていうか、どう説明したらいいかわかんない関係」


 そらが少し静かになる。端目で窺うとじっと聞き耳を立てるみたいに眼を閉じていた。


 「ふーん、そっか亜衣は両親いないんだもんな、色々あるか」


 「うん」


 それだけのやり取りだけど、それとなく納得したようにゆうまは頷いた。なんというか、察しがいい。


 「親代わり?」


 そらが少しだけこちらを窺って、そう問うてきた。


 「うん、一杯お世話してもらった」


 「ふうん」


 「でも、それだけじゃないかな」


 「……例えば?」


 「うーん……命を救ってもらった恩人だし。生き方を教えてくれた先生みたいだし。いろんなことを一緒にしてきた友達みたいだしーーー」


 二人は黙って聞いている。私の声以外は波の音と船のエンジンの音だけがしている。


 「幸せになって欲しい人、かな」


 「ふうん」


 そらはじーっとこちらを見ている。何を言おうか考えているみたいな顔をして、しばらくすると口を開いた。


 「ややこしいわね」


 「うん」


 そっけなくて、シンプルな感想に思わずフフッと笑う。そららしい、かな。


 「それぶっちゃけ、性欲わくんじゃねえの」


 そらがぶっと吹き出した。それからゆうまを藪にらみする。そういえば、船酔いはだいぶましになったのかな。


 「あんたねえ……」


 「いや、なんというか。そこまで近くなった関係ならさ……わくんじゃねえ?」


 ゆうまは若干たじろぎながら、そらの藪にらみから目線をそらす。私はその様が面白くて思わず吹き出した。


 「ははっ……。んー、正直、キスしたいとか抱き着きたいってのはあるよ。実際してるし」


 「あんたもこんなセクハラ発言、馬鹿正直に答えなくていいの」


 私がそう言うと、呆れたようにため息をついてそらが私を見てきた。はは、あ、今のセクハラなのか、まあ確かにそう捉えれなくもないか。


 「いや、待て、誤解だ漆原。俺はシンプルに興味本位で聞いたのであって下世話な下心は一切ない」


 「反省がない分、余計に質が悪いわ」


 「ははは」


 二人のやり取りに笑いつつ、少し空を見上げる。今日は綺麗な快晴で雲一つない。……いや、よく見るとちっちゃい雲が一つだけ浮いてるね。幸せな心のちょっとした不安みたいに。


 「これでいいのかなってのはあるんだけれど」


 「……うん?」


 声がちょっとだけ、震える。


 「こころさん、ちょっと性別が特殊な人でさ。性的な指向。女の人か男の人のどっちが好きかみたいなの聞いたことがあったんだけど。そういうの、ないんだって。性的にどっちが好きみたいなのがない人なんだ。だからさ、ちょっと不安。私が触れて困らせてないかなって。空回りしてないかなって」


 少し沈黙。


 「ごめん、こんなの愚痴っても仕方ないよね」


 思わず顔を俯けた。ダメだな。もうちょっと言い方考えないと、辛いこと言ってるだけになってるね。もうちょっと。もうちょっと。


 「もう、唐突に泣くんじゃないわよ」


 「ぅう、……ごめん」


 喉が痛い。眼が熱い。鼻を涙が伝う。そらに頭を撫でられる。はは、そらはやっぱ優しいというか、面倒見いいね。変だけど。本人に言ったら怒られるかな。


 「相変わらず漆原はこういう時、優しいよな」


 「やかましい」


 そんなやり取りがうつむく私の上を通り過ぎていく。


 「というか、あんたこういうのには一家言あるんじゃないの」


 「んー、言うタイミング計ってた」


 「そーいうのいいから、さっさと言いなさい」


 「ま、そうだな。亜衣、ちょっといいか?」


 「……何?」


 声をかけられて、顔を上げる。涙はウェットスーツの袖で拭いた。


 顔を上げると、ゆうまがちょっと優しい笑みでこっちを見ていた。


 「いわゆる、そーいう性的なありなしってのはどうやってできると思う?」


 「え、うーん、よくわかんない」


 「はは、そりゃそうだよなあ」


 私が素直にそう答えると、ゆうまは、はははと笑った。そらは少し投げやり気味にゆうまを見ながら、手だけ私の頭を撫でている。


 「もったいぶってないで、ちゃっちゃということ言いなさい」


 「いやあ、こういうのは踏ん切りってのが難しいんだよ」


 そういってゆうまは苦笑いをする。


 「はあ……、亜衣、先に教えとくとね。悠馬はねバイなの」


 「バイ……?」


 「そう、男でも女でも好きになるタイプ。で、しかも結構それをオープンにしてるわけ」


 「ほへー」


 よく話には聞くけれど、実際に見たのは初めてかもしれない。私は思わず口を開けてゆうまをまじまじと見た。


 「いや、それどういう反応?」


 「ううん、むしろ何というか納得いった」


 「え? 俺、そんなにじみ出てた? バイ感みたいなのあった?」


 「うーん、そういうのはわかんなかったけど。あの変人集団に違和感なく交ってる割に、ゆうま全然変なところがないんだもん」


 「おおん、そういうことね」


 そう、あの変人集団の中にいるにはあまりにもゆうまは常識的すぎた。おかしい、どこか変なはずだと観察はしていたのだが、ついぞ理由は解っていなかったのだ。なるほど、なるほど。そーいう角度からきたか。ゆうまは若干、面食らったような顔になってそして苦笑いのまま、会話を続ける。


 「……まあ、そんなわけで俺は割とどっちでも好きになるわけだけど。そんな俺に言わせるとだな、どうやってどっちの性別が好きになるかというとーーーー」


 「うん」


 「ま、好きになった奴がどっちだったかによるよな」


 「……うん?」


 「俺、最初、すげー仲のいい男友達がいてさ。そいつとよくプロレスごっことかして遊んでたんだよ。で、そいつとは自分の過去のこととか、何考えてるかとか割と明け透けに話す仲だったんだよ。中学から一緒だったけど、もう大体のことはお互い知ってて、いろんなことを一緒にやってきたわけ」


 「うん」


 「もう唯一無二の親友みたいな感じでさ。もう、こいつ以上に俺を理解してるやつなんていないって、そしたらさ、健全な肉体なわけ。湧いてくるよな、性欲」


 「ほへー」


 そーいうものなのか、よくよく考えたら私、まともに人に性欲って向けたことがないからわからないんだな。


 「だからまあ、俺はたまたま好きになった奴が男だったってだけだ。女の子も好きだぜ? 抱き着いたら柔らかいし、可愛いしな。性欲も湧く。でも俺は男でも割と平気で湧くよ。抱き着きたいし、触れ合いたい」


 「……その親友とはどうなったの?」


 「あー……一応、告白して。試しってことでちょっと付き合って、実際、色々やってみた。で、やっぱ違うわごめんって言われて別れた。まあ、俺がそう思っても相手がおんなじとは限らんよな」


 「ん?ーーーちょっと悠馬、その話要約すると」


 「えーと、性的にどっち好きになるかはぶっちゃけ、誰好きになったかに寄るのと。それはそれとして、相手がどう思うかはわかんねえって話だな」


 「あんた絶妙に励ましてなくない?」


 「だから、タイミング計らせろって言ったじゃん」


 「あー……、悪かったわよ。ごめん、亜衣。あんま参考になる話じゃなかったわ」


 「ううん、話してくれてありがと、ゆうま。そらも。気遣ってくれありがと、元気でた」


 「お、おう。そいつはまあ何より。何のヒントにもならなかったが」


 「ううん。なったよ。聞きたいんだけどね、ゆうまはね、なんで自分がバイってことをちゃんとそんなに受け入れてるの?」


 「うぇ……?」


 「だって、きっとそれ結構受けれ入れるの難しいことだと思うよ? 自分が人と違うとか、相手に受け入れられるわからないとかきっと色々おもっちゃわない?」


 「まあ、普通、そうかもな」


 「でもゆうまはさ、受け入れてるじゃん、なんで?」


 「え…うーん、なんでだろ」


 「私はね。ちゃんとその親友に伝えて、それでその親友もちゃんと聞いて、話をしてくれたからじゃないかなって思うの。そうやってちゃんと伝えあえたから、きっとゆうまはその人と結ばれなくても、今の自分がそれでいいって思ってるんだよ」


 「……」


 「---っていう私の勝手な想像なんだけどね」


 「……いーや、実際そうだと思うよ。もしあっこで言わないまま黙ってたら、きっともっと俺は拗らせてたよ。もしあいつがちゃんと聞いてなかったら、もしかしたら俺は自分がうまく出せなくなってたかもな」


 「うん、だからね、ちゃんと伝えなきゃって。そういうふうに私はゆうまの話を受け取ったの」


 「前向きねえ、あんた」


 「いいことでしょ?」


 「ま、そうだけど」


 「いやあ、さすが。漆原が気に入るだけはある」


 「へへへ」


 「そこで私引き合いにだすのおかしくない?」


 「はは、わりい。恥ずかしくなったら、とりあえず漆原にふっとけばいいかみたいなところがあるよな」


 「私が寛大じゃなかったら、速攻で縁切ってるわよ」


 「ああ、感謝してるよ。寛大で、ひねくれで、ずばずば物言って、弱点も多い」


 「おいこらぁ、一回くらいまともに褒めて見せろ」


 「そら、いっつもありがとうね!!」


 「だーっ、くっつくな!私は別にそういう趣味はないの!」


 「いや、わからんぞ。距離が近くなればそういうことも……」


 「あるかもね!!」


 「あんた、さっきまで心愛さんに触れたいとか言ってなかった?!」


 「それとこれとは別腹じゃー!!」


 「あー、わかる。わかる。俺も男触りたいのと女触りたいのは完全に別腹だわ」


 「し・る・かー!!!」


 泣き笑いながら、看板で過ごした。あんまり騒ぐもんだから、船の中から大人たちが顔を出してきて、笑いながらそろそろダイビングポイントだよって教えてくれた。私たちは元気よく返事をした。


 伝えること。


 そう、結局、するべきことは変わらない。


 ふぅと息を吐いた。


 -------------


 あいと一緒に海を泳いだ。


 ごぼごぼと泡を吐きながら、酸素ボンベの音を聞きながら、水が伝う感覚に揺られながら。


 大人たちが子供たちをそれぞれ連れて、泳ぐ。僕はあいを連れて、海を揺蕩う。


 水の底を、魚の群れの隙間を、岩の上を揺らいでいく。


 海の中にいるといつも不思議な感覚になる。


 音は今ここにしかない。


 水は今ここにしかない。


 水の中は地上の全てが遮断されて、全くの別世界にいるように思えてくる。


 名前も背景も、誰が誰であるか、どんな道を歩んできたか、これから何をするのか。


 それらがすべて置き去りにされる。


 水の中には、今しかない、この世界しかない。


 あいを誘導しながら、時に手を引きながら泳ぐ。


 言葉は通じない。


 いくつかの手信号が通じるだけ。


 それもあいは初心者だから、多くは伝わらない。


 そんな彼女の手を引きながら泳ぐ。


 今、この瞬間しかない。


 時が止まっているみたいな、でも泳ぎ続けている不思議な感覚。


 きゅっと手が握られる感覚があった。


 口から泡がこぼれ出た。


 空を、海面を見上げる。


 白い光が窓の淵から漏れるように揺らめいている。海の中には決められた範囲でしか光は入ってこない。


 僕が上を指さすとあいは頷いた。


 手を引いて上を目指す。


 閉じられた世界から、僕らはゆっくり浮上した。


 -------------------


 「たっのっしー!!」


 「そっか、それはよかった」


 船の端で陽に当たって身体を暖めながら、私とこころさんは海を眺めていた。他のみんなはまだ海から上がってないみたいだ。


 「こころさんは、楽しかったですか?」


 「うん、楽しかったよ」


 「ふふ、それはよかったです」


 波の音がする。海の音がする。風の音がする。潮の香りがする。こころさんが隣にいる。


 さっきまでの未知が溢れていた海の中の体験とは裏腹に、とてもとても穏やかな時間。


 言うなら今かなあ。


 そう思った。


 声を出そうとした。


 喉の奥が震えた。


 胸の内がしぼみそうになった。


 怖い、不安だ。


 自分の胸にそっと手を当てた。


 そう、でも伝えなきゃ。


 今の、私の心。


 「ねえ、こころさん」


 「なに?」


 「愛してます」


 「……うん」


 少し迷ったような返答。

 

 「いろんな気持ちが混じってわかりにくいんですけど。いっぱい愛してます。家族みたいで、先生みたいで、恩人で、きっといろんな名前が付けられるんですけど」


 「……うん」


 「それでですね、恥ずかしながら、その、性愛というのもその愛には入ってまして。だから、その、私は正直、こころさんといっぱいハグしたいしキスしたいし。抱き合いたいし、えーと、その……」


 「うん」


 「それが……私の愛なんです。こころさんの好きな人の指向が『なし』なのは知ってるんです。でも私はそうなりたいんです」


 「うん」


 「……え……と、それだけ……です」


 「うん」


 頬が熱い。顔が真っ赤になっている自覚がある。指先が震える。こころさんの顔が見れない。


 少しだけ時間があった。


 「僕はさ」


 「……はい」


 「性的指向は『なし』っていったでしょ。あれは要するに人に対して愛をいままで感じたことがないってことなんだ」


 「……はい」


 「男の人も女の人も、どっちでもない僕をそこまで深くは受け入れてくれないってどこか思ってて。受け入れられる自分も想像できなかったんだ」


 「はい」


 「後は多分、身体のこともあるからそういうのが湧いてきにくいってのもあると思うんだ。だから今までは自然と、誰かと一緒になることなんてないって思ってた。機会があってもどこか拒絶してたんだ」


 「……はい」


 「でもさ」


 「……」


 「あいに触られるのは嬉しいんだ」


 「……」


 「あいにキスされるのは嬉しいんだ」


 「……」


 「心のどこかで、そんなわけない。ふさわしくないって思ってたけどね、やっぱり嬉しいんだ。僕がキスして君が真っ赤になると、それだけで胸が熱くなってくる」


 「……」


 「ねえ、あい」


 「…………はぃ」


 「こっち向いて」


 「はい」







 「「          」」


 






 「好きだよ」



 「私もです」



 「愛してる」



 「私もです」



 「ねえ、あい」



 「こころさん」









 「今ね、僕、幸せだよ」



 「はい、私も幸せです」


 












 ------------



 祈る。



 たくさんの犠牲をこえて僕らはここにいる。



 たくさんの人と交わりながら僕らはここにいる。 



 たくさんの積み重ねの果てに僕らはここにいる。



 そして今を歩いてく。



 祈る。



 僕と関わる人の幸せを。



 祈る。



 あいの幸せを。



 祈る。



 何より僕の幸せを。



 今までに。これからに。今に。



 ごめんなさいを。



 そして、ありがとうを告げながら。



 僕たちは歩いていきます。



 歩く今がとても幸せです。



 祈る。



 今を。



 感じる。



 今を。



 ただただ。




 幸せを。




 あいといっしょに。

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