夕暮れの前にあなたに会いたい

雨宮 瑞樹

夕暮れの前にあなたに会いたい

夢を追いかける人にとって当たり前だった毎日の光景なんて、大して重要なことではないのかもしれない。

階段をかけ上がっていくためには、ただの足枷となるだけで。

でも、私にとっては些細な日常はかけがえのない大切なものだった。

だから、本当はあの日叫びたかった。

『ずっと待ってるから』



※※※※※


記憶にないくらい小さい頃から一緒に過ごしてきた幼馴染みの翼と私。

彼の父親がサッカークラブのコーチで、某超有名マンガのファンでもあることから『翼』の名前はそこから名付けられた。


小学校から高校二年まで同じ学校にずっと通い続けていた。

家も隣同士ということもあり、登下校もずっと一緒。

翼は幼少期から父親のクラブに所属していた。

その中でも翼の才能は群を抜いていて、あっという間に先輩達を追い抜いていった。

そんな彼の夢は『プロサッカー選手になって、世界の翼になること』


短い髪に汗の粒を太陽のように光を放つ姿を私はいつもドキドキしながら、 遠くから声を枯らして応援していた。

そうしているうちに私の夢もいつしか『翼が世界一のプロサッカー選手になって活躍する姿を見ること』になっていた。


翼は、ボールを蹴っている時はアーモンドみたいな目をキラキラと耀かせているけれど、一度そこから離れれば

「今日の宿題、最悪。作文とか意味わかんねぇよな~。代わりに書いてくれよー。」

と、勉強嫌いのごく普通の青年に戻っていった。

その瞬間、私はいつもホッとしていた。

いつの間にか雲の上にいた翼が私の隣に戻ってきてくれたような気がしたから。


「ダメー。宿題は自分でやらなきゃ意味がないのよ。」

「冷たいヤツ…。」

「『やらなきゃいけないことは淡々とこなして、手を抜かない』が翼のモットーなんでしょ?」

「それは…サッカーの話で、勉強じゃねぇよ。」

「はいはい。帰ったらうちで一緒にやりましょうね。ちゃんとチェックしてあげるから。」


いつもそうやって、学校から帰ってくるとどちらかの家に集まって、翼をフォローしながら宿題を済ませる。

それが終わると

「じゃあ、行くか。」と試合終了のホイッスルが響くように翼が告げれば、私は「うん!」と笑顔で頷く。

そして、家から数十分ほど離れた高台にある公園にいくのが、私たちの日課だった。


その公園からは、この町にある小さな飛行場が見えるのだ。

私たちはブランコを揺らしながら、飛行機が飛び立っていくのを眺めるのが大好きだった。

私たちが住むこの小さな田舎町は、大都会に出ようとすればバスや電車を乗り継いで行って、丸1日かかるような場所。

でも、あの飛行機に乗ればあっという間にずっと遠くの大きな街に行かれる。

時には海を越えて知らない国だって飛んで行ける。

飛行機が離陸する度に、大きくブランコを空高く漕ぎながら新しい世界に思いを馳せて夢も一緒に空に飛ばした。


「俺は、あの飛行機きに乗って絶対にプロサッカー選手になってやる!」

青空に飛んでいく飛行機を見上げながら、翼は叫んだ。

「ただのプロじゃなくて、『世界一』のでしょ?翼がそうなることは、私の夢でもあるんだから、しっかりと叶えてよね!」

私も空を見上げながら、そう言えば

「おう、当然だ!」と、翼は自信満々にニヤリと笑った。

そんな風に夢を語り、頬にあたる四季の風を感じながら笑う翼の横顔を見るのが、何よりも私は好きだった。

少しずつ積み重ねていく日々。

その度に私の心にあった蝋燭一つ一つに明かりが灯っていった。

暗い夜が明けていくように。

美しいピンクと群青が混じり合っていく空のように私の心は彩られていった。


でも、翼がピッチを駆け抜ける姿を見つめながら、ふと立ち止まり思う時ある。

もし、すべての蝋燭に明かりが点いてしまったら、どうなるんだろう。

光は失うことはないのだろうか。

いつしか、力尽きてゆっくりとその炎は消えていくことはないはないのだろうか。


そんな漂う不安を押し込めて、まっすぐ前だけを見据えてひたすらに夢を一緒に追いかけた。

そうすれば、少しはこの胸の次第に靄は晴れてくれるような気がしたから。


でも、夢が本物になろうとしたとき。

見て見ぬふりをしようとしていた現実を突然、突きつけられることとなった。

それは、高校二年インターハイでの優勝した日。

その前から少しずつマスコミが翼の回りに付き始めていたけれど、翼の端正な顔立ちも相まってこれまでとは比にならないくらい物凄い人数の記者やらファンが集まってくるようになったのだ。

翼の活躍振りがプロのスカウトマン達の目に留まり、海外の複数の強豪チームからオファーが殺到し始めたからだ。

毎日のように交渉人が会いに来たり、電話が来たりと、翼の周辺は嵐のように騒がしくなった。


そんな中で、いつものように翼と私が一緒に歩いていれば「恋人ですか?」とマイクを向けられるようになった。

最初の頃は「違います」と丁寧に答えていたけれど、何度も同じのことを聞かれるし、しつこく追い回されるし、翼に迷惑がかかるのも嫌になって、私は距離をおくようになった。

隣にいるのが当たり前だった日常は、突然嘘のように足下から崩れていった。

一つ一つの灯っていた明かりが細い煙を残して消えてゆく。

でも、私は案外冷静だった。

いや、ただ醜い姿を翼に見せたくなかっただけだ。


「そんなの気にしなくていいから、これまで通りにしていようぜ」と翼に言われたけれど、この場所から綺麗に羽ばたこうとしている翼の邪魔はしたくないと精一杯強がって私は思い切り突き放した。


私は翼と一緒だった登下校も、休みの日に気晴らしにどこかへ出掛けることも、一緒に飛行機を見に行くことも、まともに会話することも避けるようになった。

翼から「あからさまに避けなくてもいいだろ。」と、抗議の電話やメールも来たけれど。

私は「これは必要な変化で、いつかはこうなることだった」と言って心を凍らせて無表情にそう言った。


そうよ。

こうなることは、必然で。

心の準備が少し足りなかっただけ。

自分自身にも自己暗示をかけるように、鏡に映った情けない顔に無理矢理言い聞かせていた。

そんなことをしていたら、気付いたときには高校最後の夏休みが始まろうとしていた。





私は一人。

ピンクとオレンジが深い青に滲んでいく空に、アスファルトに立つ陽炎を踏みしめていた。

夏前の終業式が終わった夕暮れ時。

去年の今頃までは、翼の体温を隣で感じながら、夏休みが始まったらどこへ遊びに行こうかと計画を練りながらこの道を歩いていたけれど。

今はもう、その姿はない。

朝学校で相変わらず色んな人に囲まれている翼をチラッと見ただけ。

連絡もあの日以来まともに取り合っていなかった。

プロになってしまえば卒業を待たずあと1ヶ月もしないうちに海を越えて、ずっと遠い国へ渡ってしまうらしいことを風の噂で聞いた。


とうとう夢が現実となる日がやって来たんだと思った。

翼を大きく広げて、高く大空に羽ばたいて行く。

私から見えないくらい、ずっと高い空の向こう側に。

そうなることが、私の夢でもあったから。

喜ぶべきことで、笑顔でいなきゃいけないのに。

…なのに…どうして、こんなに胸が掴まれたように苦しいんだろう。

沸き上がる水は身体中を巡って、目に溜まり始めていた。




「飛行機…みたいなぁ。」



私はアスファルトに長く伸びる歪んだ影法師を見つめながら、ポツリと呟いた。

何度も見たあの飛行機をもう一度だけでいいから、翼とみたい。

強くそう願えば、影は跡形もなく消えていた。

いつかは、こんな日が来ると頭ではわかっていたくせに。

でも、私の子供のような素直な気持ちは、離れたくないと泣き叫ぶ。

私はどうしたらいいの…翼…。



「じゃあ、今から行こうぜ。」



背後から、声が聞こえて驚いて後ろを振り返れば、会いたいと願っていた翼がそこに立っていた。

「何て顔してんだよ。」

呆れたような、面白いものを見たと笑っているような顔向けていた。

私がどんな顔をしているのか確認する術は持っていなかったけれど、きっと酷く情けない顔をしていたんだと思う。


「だって、いつもなら練習とか取材とかチームの関係者の人と打ち合わせとかで、帰りいつも遅いし、帰る時間同じになること、ないから…。」


「ずっと、スケジュールギッチリ詰められてたからさ。今日くらい休みをくれって言って無理矢理もぎ取ってきた。

…とはいっても、ほんの数十分だけど。

ともかく、行こうぜ。」


そういって、私の前を歩いていく何度見てきたかわからないいつもの背中を私は慌てて追いかけた。


久しぶりに来た公園は、夕陽に照らされてオレンジに彩られていた。

誰もいないブランコが二つ。

風に吹かれて、静かに揺れていた。

導かれるがまま、私は右側のブランコに座ると、左側に翼が座った。

翼とここに来たいと願っていたはずなのに。

言いたいこと、伝えたいことがたくさんあったはずなのに。

いざ翼を目の前にした私の頭は真っ白になって、ただ黙ることしかできず、代わりに両足を地面につけたままブランコを落ち着きなく揺らしていた。

すると、先に翼が口を開いた。


「先にメディアに出ちゃったようだけど、来月からドイツに行ってくることがさっき正式に決まったんだ。面と向かって一番に報告する相手はお前だって決めてたからさ。俺の口から直接伝えたかったんだ。」


「… ありがとう。

翼なら、絶対にうまくいくよ。

ずっと、近くで見てきた私が言うんだから間違いない。」


「やっぱり、ずっと近くにいてくれた人にそう言われると本当に大丈夫って気がしてくるよ。ありがとな。」


滅多に言わない感謝の言葉が別れの言葉のように聞こえて心臓に刺が刺さったように鈍くイタミ出す。

私は無意識に揺れていたブランコを両足で止めていた。

その代わりに翼がブランコを大きく揺らし始めるとあっという間に空高くあがっていく。


「毎日スポーツニュースで俺の名前が出ない日がないくらい、活躍してやる。

一年で、レギュラー取って、三年でプレミアムリーグ優勝だ。」


「翼なら、絶対にできる。

私、ずっとずっと応援してるからね!」


「ああ。だからさ、待っててくれよ。」


「え?」


「俺ってさ、一つのことしかできない性格なの知ってるだろう?

あっちに行ったら、色々考える余裕もなくサッカー漬けの毎日になる。俺、死に物狂いでやってくる。で、三年経ったらさ。迎えに来る。だから、待っててくれないか?」


いつの間にか揺らしていた翼のブランコは止まり、翼の目は真っ直ぐ私を捕らえていた。

私は、視線を彷徨わせながら、飛んでいく飛行機を追いかけた。

そして、翼に気付かれないようにほんの少し先の未来を想像してみた。

だけど、それはうまくいくことなく山の端に姿を消してゆく太陽に吸い込まれるように消えてゆく。

手を伸ばしても、空を切るばかりで指の隙間をすり抜けてゆく。

掴みたくても掴めない。

煙のように消えてゆく。

私はそっと最後の蝋燭の火を消すために、ゆっくりと息を吐いた。


「…これから、翼はどんどん階段を駆け上って、私なんか見えなくなるくらい高いところに行く。

その世界は、今とはまるで違ってて、毎日ドキドキするようなことばっかりだよ。

そしたら、私のことは勿論、こんな些細な出来事だって忘れちゃうよ。」


「確かに、これまでとは全然違う景色が広がっているかもしれない。

でも、今の俺がいるのはこれまで積み上げてきた日々が俺を導いてくれたんだ。

そんな大事な日々を忘れるはずない。

それに…お前のことは絶対忘れたくても忘れられるわけない。」


そうはっきりいう翼の言葉は私の胸を抉られるようだった。

どうしてそんなこと言うの?

私は下唇を噛んで俯くしかなかった。

一度消してしまった火はそう簡単に灯すことはできないのに。


そんなこと言われたら、翼が来ないとわかっていても私はきっと期待してしまう。

いつまでもどこまでも待ち続けてしまいそうじゃない。

いろんな思いが交錯して、涙が溢れそうだったけれど、翼といられる最後のこの時を。

思い出の場所を、私の見苦しい姿で汚したくなかった。

夢を馳せた場所は、夢のようにキレイ場所であってほしかった。

空を仰いで瞬き始めた星を見上げた。

その横からまた私の耳に声が届く。


「三年は、長いよな…。

それを待っててくれっていう俺も随分身勝手な話だと思う。

だけど、必ず結果を出してみせる。

そして、三年後の今日のこの時間。

日が沈む前までにここに来てほしい。

俺待ってるから。」

そういうと、翼の携帯が鳴り始めた。

ため息をつきながら携帯をとると「すぐ戻ります。」といって、すぐにポケットにしまった。

再度「待ってるから。」

そう言い残して、翼は急ぎ足でその場を離れていった。


本当は言いたかった。

ずっと待ってるって。

でも、そんなこと言ってしまったら、惨めな自分になってしまいそうで。

こんな約束のために翼の足枷になってしまいそうで。

本当は自由に飛びたいのに飛べなくなってしまうような気がして。

私は何も言えなかった。

すっかり暮れた空に、ぼんやりと雲の下から三日月が頼りなさ気に顔を出していた。




そして数日後、雲一つない晴れ渡った青空が広がる空に向かって翼は誰よりも高く大きく飛び立っていった。

私はこの公園から遠くの空を呆れるくらい、ずっと見送っていた。







それから一年後-

私は大学生になった。

始めて翼がいない学生生活が始まった。

翼はレギュラーを勝ち取り、日本で知らない人がいないくらい翼の名前は全国に知れ渡った。

翼が出場する試合の模様を欠かさず見ては、興奮しながらテレビに釘付けになっていた。

やっぱり翼は凄い。

誇らしい思いでいっぱいだった。



二年後-

家に帰りテレビをつけるとスポーツ番組に美人女優が翼にインタビューしているところが映されていた。

「私、翼さんのファンなんです。」

女優は、頬を赤くしながら熱く翼にを見つめれば、翼は私の隣にいた頃と変わらない笑顔を浮かべて、照れながら頭を掻いていた。

翼と最後に会った時に刺さった刺がまた心臓を深く刺してゆく。

ゆっくりと、確実に。

それから、私は翼の特集された雑誌やテレビを見なくなった。


三年後-

翼のチームは見事に優勝を果たした。

優勝カップをチームメイトと一緒に掲げる翼の姿が各スポーツ紙一面を飾っていた。

見たくなくても目に入ってくる翼は、思い出の中の翼とは別人に思えた。

だけど、涙が出るほど嬉しかった。


日本全国で翼旋風が巻き起こり、ずっと日本に帰ってきていなかった翼がとうとう凱旋帰国すると話題になっていた。

その日は奇しくも、三年前に約束したその日の前日だった。

こんなに有名人になった翼が帰ってくるのだから、テレビ局や記者が翼を待ち構えているのは当然のことで。

帰国したその日は、テレビをつければどの局にも有名人に囲まれて笑顔を絶やさない翼がそこにいた。

テレビに映る翼を見ながら、どうか翼に届くようにと願いながら

「おめでとう。」と伝えた。



そして、約束の日。

日が沈む五分前ー


私はあの公園のブランコに揺られていた。

最後の力を振り絞るように美しく燃え盛る太陽に向かって飛んでいく飛行機を見ながら、私は勝ち誇ったように言ってやる。


「ねぇ、翼。

私の言った通りだったでしょう?

やっぱり忘れた。

約束のことも。

私のことも。

大事だといったあの時のことも。

私の方が正解だったね。」


沈んでいく夕陽が儚く消えていこうとしている直前。

私は、最後に思い切り勢いをつけてブランコを蹴りあげ何度か漕いで、一番高く正面に上がった刹那、手すりから手を離し宙へと身を投げ出した。

着地した両足から砂ぼこりが舞い上がると、

夕陽に照らされて、星のようにキラキラと輝いて見えた。


私は、まだ大きく揺れているブランコに向き直ると深々とお辞儀をした。

「温かい思い出を作ってくれて、ありがとう。さようなら。」


翼と過ごした日々をすべてを忘れる自信はない。

もう二度と抜けることがない心臓に深く埋め込まれた刺は、一生痛み続けるんだろう。

でも、それでもいい。

それが、私なんだから。

痛みを抱えながら、ここから未来への一歩踏み出そう。

密かな決意を胸に、私は踵を返した。





その時。





「ギリギリ、セーフだよな?」


少し息を切らしていたけれど、その声を聞き間違えるはずなかった。

私の目に涙が溢れてくる。

ずっと聞きたかったあの声。

ずっと会いたかった一回り大きくなったその姿。

いつも隣にあった変わらない息遣い。

気付いた時には、私はその胸に引き込まれていた。

重なりあう二つの影は、輪郭をなくして消えていく。


「もう日が沈んじゃったよ。」

「遅くなって、ごめん。」


残光漂う幻想的な空には、黄金色の満月が浮かび始めていた。

強さを増してゆく月光は、祝福するように優しく包み込む。

再び現れた二人の影は静かに重なりあっていった。

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