無貌の人

鯨ヶ岬勇士

無貌の人

 変身妖怪シェイプ・シフターほど優れた種族はいない。それが変身妖怪たちの同胞はらからの口癖だった。彼らは誰かに触れることさえできれば、その人間の姿を取ることができる。変身には多少なりとも苦痛が伴うが、薄いゴム質の皮膚を脱ぎ去り、粘液にまみれながらも新たな姿を得る。そうして、その人間としての姿だけではなく、人生そのものも得るのだ。彼らは有力な権力者にも、高名な文化人にも、何にもでもなれるのだ。


 携帯電話が細かく震える。ああ、震えたいのはこっちだよ。彼はいつもそう思いながら、嫌々電話を取る。正直、心臓が同じくらいバイブレーションし、声が上ずる。


「もしもし」


「おい、遠藤。てめえ、定期報告を忘れてるんじゃねえぞ。どやされるのは俺なんだからな」


 電話の相手は明智先輩だ。彼は変身妖怪としては手練れで、このにおいて電話を取った後輩――遠藤吉平――の教育係を務めている。明智先輩は確かに腕は立つかもしれないが、人としては最低だ。パワーハラスメントも平然とするし、自らを良く見せようと他の変身妖怪の前では遠藤のことをけなして話す。だが、遠藤にとって一番腹が立つのは言い分が間違っていないことだ。ちまたではこれをロジックハラスメントとも言うらしい。


「何人だ」


「え」


「何人の女と寝たのかって聞いてるんだよ、間抜けがそんなこともわからねえのか。まさか、未だに童貞なんて言わねえよな」


 何も言えなくなる。変身妖怪としてしなければならないことはいくつかある。人間を襲って食べること、他者に成り代わって金を奪うこと、そして誰かのふりをして人間の女を妊娠させることだ。


 彼ら変身妖怪には女がいない。というより、性別の概念が薄く、妊娠して子供を産むという生殖機能が著しく低いのだ。人間の世界には不妊治療なるものがあり、それを続ければ新しい命を宿すことができるようになるらしい。だが、あいにく変身妖怪の不妊治療はない。そのため、彼らの少子化問題は人間のそれより遥かに深刻だ。


 昔、変身妖怪は世界各地に存在していた。その名前も様々で狼潜りスキン・ウォーカー悪戯妖精ボガート、この日本ではタヌキやキツネのたぐいとされてきた。


 すなわち、怪物の世界で最も繁栄していたのは彼らだったのだ。竜や巨人も、その伝承は多数存在しているが、変身妖怪には遠く及ばない。正体を知られらることのない彼らは、いわば無敵の妖怪であり、誰もが一目置く種族だった。


 しかし、それも昔の話。今では人間の姿をした怪物の代表格は吸血鬼ヴァンパイアにとってかわられた。連中は青白い肌に甘ったるい顔で、女たちをかどわかし、その勢力を広げている。最近では連中を主人公にしたテレビ番組や映画まである。


 吸血鬼は血を吸うしか能のない日陰者だぞ、何がそんなに魅力的なんだ。酔った変身妖怪は皆そう管を巻く。その上、最近では人狼までも似たような扱いだ。怪物そのものの生息域が科学のともしびで狭まる今、その覇権争いは熾烈を極めている。いつ、死者が出る大規模な抗争が起きてもおかしくない。それなのにも関わらず、変身妖怪は絶滅寸前だ。だから遠藤や明智のようなが必要とされる。遠藤は自分でも、これを最低の職業だと思っている。だが、絶滅を避けるためには仕方がない。


 この先輩と電話でお気づきの方もいるかもしれないが、遠藤はただの一度もを果たしたことはない。それどころか、ただの一度も女性と肌を重ねたことはない。


 そういった欲求がないわけではないし、彼はゲイでもない。彼曰く、自分は女性が大好きだ。アダルトビデオだって見るし、街で露出度の高い女性が隣を通ると目で追ってしまう。彼はセクシャルな欲求を持つ若い変身妖怪だ。


 女性に話しかけるといった勇気がないわけではない。それどころか、血気盛んな方だ。人間を襲って、その心臓を喰ったこともある。人間の心臓の味を知っているものはいるか。変身妖怪は口をそろえてこう言う――あれは最高に美味うまいと。


 それは熟れすぎた果実のようで、一口かじると中から真っ赤な汁がこぼれ落ちる。弾力のある表面に対して、中身は汁気がたっぷりで、その鮮烈な香りが口から鼻へと広がっていく。それによって口元が赤々と染まり、喉元まで垂れようとも気にしない。尖った歯に伝わる感触が、喉をどろりとした汁が流れる感覚が、鼻の奥に満ちる香りが、それらすべてが甘美で耐えがたい悦楽をもたらすのだ。その美味さは何物にも替えがたい。


 おっと、話が少しそれたが、つまり彼には勇気がある。遠藤は女性に対しても他の連中と違って、に接しているつもりだった。それでも彼にはその経験がない。女性を物のように扱う他の変身妖怪が一晩に何人を抱いたとか話している間、いつも知ったかぶりで誤魔化している。向こうがそれを見抜いていることも薄々わかっているが、本当のことを話すと彼自身の心がたないのだ。


「おめえ、いっぺんでいいからよ、デリヘルでも、ピンサロでも何でもいいから風俗にでも行ってこいよ。それともあれか、は好きな人が良いとか言うんじゃねえだろうな」


 電話の向こうから下品な笑い声が聞こえる。下衆ゲス野郎め。そう思うが反論はできない。それは向こうの方が年長者だとか、そういうことだけではない。


 実際、遠藤も一度か二度、そのような夜の店に足を運んだことがある。結果は惨敗、ことに及ぼうとしたとき、彼のは無能、いや不能に陥った。一度そうなると二度と甦ることはなく、あとはそれを恨みつつ、ただ無駄に60分間を過ごし、金を払った。


 だが、彼らは飲み屋で下品な話に花を咲かせる大学生ではない。これは種の存続がかかった大事な仕事なのだ。言い訳をしていられない。次の仕事が失敗したら、お叱りどころでは済まないのはわかっている。もう自分には後がない。遠藤はそう言い聞かせて、自分で自分のそれを奮起させた。


「次の相手は誰ですか」


「次は隣町の中条ちゅうじょうって家だ。決行日は明後日の10時ごろ。調査班の調べでは旦那はその晩、飲み会で帰りが遅い。そこ狙って代わりに。10か月もしたら回収班が赤ん坊を取りに行く」


 ここまで聞いて、もしかしたら、彼ら変身妖怪が無理やり女性をにすると思っている人々がいるかもしれないが、それは大きな間違いだ。彼らは女性宅に忍び込み、そのパートナーの姿をもってことに及ぶ。その際にタイミングを慎重に合わせ、そのカップルはお腹に宿った新しい命を自分たちのものだと思い込む。そして生まれたら、回収班が再び忍び込み、赤ん坊を連れ去ってアジトで変身妖怪のいろはを教え込む。そうして今まで仲間を増やしてきた。実際、遠藤自身もそうやって生まれた子どもだ。親の顔も知らない。だが、それもすべて種族のためだ。


「わかりました、それでは明後日向かいます」


 そう言って、電話を切った。これが最後のチャンスだ――そう自分に言い聞かせて。


 決行の晩、彼は中条家の前で静かにその時を待った。調査班が最終確認を済ませ、ゴーサインの電話をしてきたら、家に何食わぬ顔で忍び込む。もう準備はすべてすました。服は中条家の旦那が来ているものとまったく同じメーカーの背広、顔もその男と同じで、腕時計すら完璧にそろえている。あとは最後の連絡を待つばかりだ。


 中条家はどこにでもあるような二階建ての一軒家で、新築なのか、街灯の薄暗い明かりでも壁の白さがわかる。遠藤の住むボロアパートとは大違いだ。豪華すぎず、質素すぎず、まさしく絵にかいたような幸せな小市民そのもの。それは彼ら変身妖怪には無縁の世界だった。彼らは豪邸に暮らす有力者に化けて、贅沢三昧もできる。あくせく汗水たらして働く必要などない。そう自負していたのだ。


 携帯が震え、小さく音が鳴る。ゴーサインだ。それを聞くと、遠藤――いや中条の旦那は壁をするするとトカゲのようにのぼり、それから二階の窓を開けて忍び込んだ。そして、まるで今帰ったかのような顔をつくり、妻に話しかける。


「あら、帰ってたの」


「ああ、ついさっきね。もう仕事でくたくただよ」


 ここまでは良い調子だ。この男が良く言う言葉も予習済み、抜かりはない。それから、ゆっくりの妻の肩に手を置き、彼女の髪を褒める。これもこの男のいつもの行動だ。妻が疑うことはない。完璧な――まさしくこの男そのもの――行動だ。あとは、この妻とに及ぶだけ。


 ベッドルームまでゆっくりと行くと、彼女を優しく押し倒す。よし、これでとうとう自分は――


「何をしているの」


 急に神妙な顔をする妻。何を間違ったんだ。ここまではすべて調査通りの完璧なものだったはず。


「あの人はこんなことをしない。あなた誰なの」


 彼女の顔が、いびつに歪む。それは夫と同じ顔をしているが、が違う不気味さに戸惑う顔だ。自分がおかしいのか、それともがおかしいのか。その違和感が彼女の口にそう言わせた。


 夫に似たそれは、脂汗を額に垂らし、まぶたを忙しく震わし、口もとをひくつかせる。それから、何やらそれっぽいことを話すが、彼女にとってはただただ不気味で、慣れないことをする子どものような幼稚なものでしかなかった。


 その瞬間、遠藤の心臓が爆発したかのように鼓動する。全身の血が一気に頭にのぼり、思考が止まる。もう頭は真っ白で、口は酸素を求めてか、それとも言葉をひねり出すためかわからないがぱくぱくとしている。何故、気づかれた。何が失敗だったのだ。ゆっくりと血流の勢いが収まると、次はそのような考えが頭を駆け巡る。


「いつもと違う。これには愛がない」


 その一言に頭の中で何かがはじけた。心の奥底に封じ込めてたその何かが、鍵を壊して暴れ出す。もう何も考えることができない。息が止まる。空気がない。まるで宇宙だ。ここにはいられない。限界だ。ああ。ああ。ああ。


 気が付くと自宅にいた。玄関を見ると、鍵が開けっ放しになり、靴が乱雑に脱ぎ捨てられている。わかるの無我夢中で走って逃げただけ――今までにはないパターンだ。いつもは不能で終わり、何となくな会話して、隙を見つけて外に出る。だが、今回はそれ以上だ。パニックになり、逃げ去るなんて初めてのことだった。


 呼吸はまだ荒く、頭の中に浮かび上がった謎の感情の正体もわからない。ただ、何か自分が知りたくなかった何かを突き付けられたのは確かだ。


 落ち着くために、洗面所に行って顔を洗う。冷水を何度浴びても、この悪夢が目覚める気配はない。そうやって一息つくと、顔を上げて鏡を見た。そこには中条家の旦那の顔が写っている。


「愛がない」


 その言葉が急に思い出された。それを思い出すと、また息ができなくなる感覚に襲われる。何故だ、いったい何故なんだ。愛がないという言葉を恐れているのか。何が何だかわからない。自分はただ、種の存続のために仕事をしようとしただけ――それなのに、何を恐れている。


 再び鏡を見る。そこにはまだ中条家の旦那の顔が写っていた。そう、中条家の旦那の顔が写っていたのだ。


「これは、俺の顔じゃない」


 小さく呟く。自分の顔じゃない、元の顔に戻らなければ。彼はそう思って脱皮しようとする。


「俺の顔に戻らないと。俺の顔に。俺の顔。俺の顔ってどれだ」


 遠藤吉平の顔がわからない。そうだ、自分たちには本当の顔がない。いつも誰かの顔を借りている。美醜に関係なく、自分をあらわす顔がない。そのことを思った途端、彼の心臓が第二の爆発を起こす。


 それ以上考えては駄目だ。心がそう叫んでいる。何かに自分が気づこうとしているのを、自分が止めている。何だ、何を恐れているのだ。その時、彼の口から言葉が漏れた。


「俺って誰だ」


 それは開けてはならないパンドラの箱だった。


 変身妖怪である彼には、本当の自分がない。あるの彼が演じている誰かだけ。吸血鬼も人狼も、人間でさえも自分の顔がある。それが彼にはない。何もない。何もないのだ。


 彼はセックスを恐れているのではない。セックスをしたことがないことを恥じているのではない。彼は誰にも愛されたことがないことを恐れ、恥じているのだ。セックスをしようがしまいが関係ない。彼には本当の自分を誰かに受け入れてもらった経験がない。それが恐怖であり、恥であった。


 遠藤吉平という男には顔もなければ、愛された経験がない。だとすれば、自分――遠藤吉平――とは何者だ。変身妖怪であるがゆえに、誰にでも、何にでもなれるが、本当は誰にも、何にもなれない。


 そうだ。彼には、遠藤吉平には、自分がなかった。誰の心にも残らず、誰にも愛されず、誰にも記憶されない人生。だとすれば自分は――


「俺って誰だ」


 鏡に問いかけても、返事はなかった。

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