手のひら

佐渡 寛臣

手のひら

「君は笑うてしまうかもしれんがね」


 老人は静かにそう言って、実に朗らかな笑みを私へと向けた。


 ☆ ☆ ☆


 学校をサボって、退屈しのぎに公園を選んだのは、私がやっぱりサボりに慣れていないからだろう。日頃遊ぶ事なんてない私には時間を潰す方法なんて、今時の若者ほどは知らないからだ。

 もう授業は始まったし、このまま行っても遅刻になるだけだ。遅れて入るくらいなら、一日まるまる休んでしまう方がいい。


 急に世界がくだらないもののように見えたのは、くだらない嫉妬に巻き込まれたせいだ。

 勉強教えてくれ、なんて言ってきたのはあいつなわけで、別に私がどうこうしたわけじゃないってのに、やれ電話してるだの、メールしてるだので責められるとは思わなかった。


 あの子があいつを好きだとか、私は知るわけがないのに、いつの間にか裏切り者だとか、言われれば誰だって怒りたくもなる。

 まぁ、波風立つのが嫌な私は怒ったりはしなかったのだが、そんな態度がまたあの子らのカンに触ったのだろう。それにしたって怒る理由ではない。


 くだらないし、面倒くさい。思い返せば、ずっとそう思っていたんだ。人間と付き合いを続けるのは面倒50便利50。そんな比率だと思ってた。だけど今は面倒100。限りなくゼロに近い便利1くらいか。


 まぁ、そんなことを考えながら、ぶらぶら歩いて、私は大き目の公園に差し掛かり、一休みの誘惑に負けて、ベンチに座った。

 大の字に足を開いて、伸ばす。溜まった疲れが血の流れにそって拡散していくのを感じながら、私はくぅーと息を漏らしながら背を伸ばした。

 眩しい太陽は、頭上を覆った木の枝に遮られ、きらきらと瞬いて見える。普段はあまり気にならない、セミの声がじぃじぃと響く。五月蝿い、と思う反面、そうでもないか、とも思う。


 どうせ一週間で死ぬんだから、今くらい吠えさせたって問題ない。こいつは数日のうちに黙るんだから。学校にいる、恐らくあと六十年以上五月蝿いあいつらよりはずっとマシ。

 私は、気の抜けた顔で空を見上げていた。青空に白の絵の具で描いたみたいな無機質な雲が浮かんでいる。止まっているようにも見えるが、じぃっと見つめてみると、僅かに動いているような気がしないでもない。


「――お嬢さん、お口が開いておるよ」


 突然声を掛けられて、私がハッと視線を元に戻すと、ベンチの前に老人が立っていた。

 涼しげな麦藁帽子を被った、色素の薄い優しい目をした老人だった。短く切り揃えられた白の髭は何だか清潔で、しゃんとした背筋が何とも言えない優雅さを漂わせていた。

 じっくりと、たんまりと老人に魅入り、それから思い出したように私は開けっ放しのお口を閉じた。


「こんにちは。隣に座ってもよろしいかな?」

「――あ、はい。どうぞ……」


 公園のベンチは公共のもの。断る理由はもちろんない。そして老人が横に座ったからといって、私が立ち去る理由もない。

 老人は小さな手提げの巾着から、ハンカチを取り出し、僅かに頬に浮いた汗を拭った。老人はあまり汗をかかないのか、ハンカチに出来るシミは薄っすらとしている。


「君は……」


 老人がこちらに視線を向けずに、ハンカチを巾着にしまいながら言った。


「何をぼんやりとしているのかな?」


 行きずりの老人に話しかけられて、私は多少ではあるが戸惑った。

 普段、見ず知らずの人と会話する事のない私は、珍しく緊張してしまっていた。だけど、その老人の持つ優雅な雰囲気のせいだろうか、気味の悪さはまるでなかった。

 正直、どうしようかと一瞬迷った。当たり障りのない答えではぐらかして、この場を立ち去ろうかとも考えた。

 だけど返事をしない理由もない私は、何となくではあったけれど、その老人と会話することを選ぶことにした。


「くだらないことについて考えていたんです」


 要約すると、たぶんそういうことを私は考えていたはずだ。むしろ、くだらないことを考えていた、と言っても間違いではなかったはずだ。

 老人は、口の端を僅かに上げるだけの笑みを浮かべた。優しそうな目がきゅっと細くなり、何だか今度は愛らしさが生まれる。


「くだらないこと、について考えていたのかね」

「うん、凄く、どうしようもなく、くだらないことで」


 ふむ、と老人は頷き、私の目を見つめる。真っ直ぐな、茶色の瞳に、自分の姿が映り込んでいるのを想像して、私はじぃ、と老人の目を見つめた。

 目が、「どんなことを考えていたんだい?」と訊ねているような気がして、私は自然と口を開き、話を続けていた。

 クラスの特定の男子とひょんなことから仲良くなったこと。そのせいで要らぬ嫉妬を買ったこと。私が謝らなかったら更に相手が怒ったこと。人付き合いは酷く面倒だということ。

 そこまで話して、ふと私はこの見知らぬ老人に相談を持ちかけているような形になっていることに気付いた。

 上目遣いに老人を伺うと、老人はさっきと変わらぬ様子で、ふむ、と頷いていた。


「――す、すいません。長話しちゃって……」


 散々喋ってしまった後に、私はとりあえず謝っておくことにした。


「そこは、謝るところではなかろうて。ただ、ぼんやり歩いてきた暇で暇で仕方のない老人が、ベンチに座って話を聞いただけなのじゃから」


 にっこりと、本当に満面の笑みを浮かべて老人は言った。


「は、はぁ……」


 私は気の抜けた返事をして、老人を見つめた。暇で暇で仕方がないという老人は、持ち物も少なく、身なりは軽い。本当にただ、散歩していただけなのだろうというのが見てわかる。


「――君は……」


 老人が真剣なまなざしで、私の頭の天辺から足先までを眺めて、言った。


「君は傷ついておるのだな」

「はい?」


 突飛なことを言うのだなぁ、と私は思った。傷つくはずなんてないじゃないか。さっきの私の話しの中に、どこに私が傷つく話があっただろうか。傷つく理由なんて何もなかったじゃないか。


「――あの、私別にそんなことないんですけど」


 ふむ……と老人は頷く。あ、何か私、その仕草好きかも、と考える老人を見てふと思った。


「君は、特別な誰かを作ることに抵抗があるのだろう?」


 私は思わずハテナを頭に浮かべていた。トクベツナダレカ?


「特別に人と親しくなることに抵抗を感じているのでは?」


 老人はそう続けたが、私は老人の言いたいことを理解できずに、何も言えずにただ首を傾げていた。私は本当にわからないことに遭遇すると声も出ないらしい。


「わかりやすく言えば、親友はおらんだろう?」

「うっ!」


 どきり、とした。ずばり老人の言うとおり、私には親友と呼べる友人は一人もいない。


「その理由は……わかっておるのだろう?」


 言われて、私はもうずっと昔に置き忘れたその理由を辿った。まだ小学生の頃だった。

 あの頃の私は親友が一人だけいた。隣の家に住む、幼馴染の男の子。毎日遊んで、毎日一緒に学校へ行って、毎日一緒に帰っていた。


 その関係がぎくしゃくしたのは、私の同じクラスの友達が、彼のことを好きだとか言い出したからだった。

 当時の私は特に恋愛的な感情なんて持っていなかったけど、何となく、何となくだけれど、彼のことを独占したくて仕方がなかった。


 結果は散々なものだった。友達だった女子とは険悪になり、陰湿な嫌がらせを受け、そして嫌がらせの原因は自分だと幼馴染の彼は自分を責めて、私と距離を置くようになった。それから運良く(?)彼は私の隣から引越し、彼を好きだと言った女子はさっさと次の恋に目覚め、事なきを得たのだが、私はその時の失敗からひとつのことを学んだ。


 誰かを特別に大切にしてはならない。ということだ。

 誰とも仲良くやっていくためには、誰を特別扱いせず、等しく愛し、等しく嫌うことが必要だと知ったのだ。

 だから私は老人の言うところの「特別な誰か」を作ることはしてこなかった。例え、気になる人が現れても、そんなことを考えないようにしてきたのだ。

 私は黙って俯いていた。うっかり、昔の古傷を思い出してしまったからだ。はい、老人の言うとおり。私は傷ついているんだ。


「本当は、友達と上手くやっていきたいのだろう?」

「――うん……」


 もう、あんなぎくしゃくした学校は嫌なのだ。だから私は慣れないサボりをしてまで、学校へ行くことを拒んだのだ。


「――私は、我がままなんだ」


 私はぽつりと、囁くような声で言った。別にそんなしおらしい声を出そうと思ったわけじゃないのに、どうしてか、声はだんだん細くなっていった。


「誰とでも仲良くなりたくって、誰にも嫌われたくなくって。みんな等しく大切にしようって思ったらさ。私、何だか上手くできなくなっちゃったんだ……」


 視線を上げると、老人は真剣な面持ちで私を見つめていた。悲しげな瞳の向こうは、何だか優しくって、私の胸に思わず熱いものが込み上げてきそうになった。


「――特別に誰かを大切にするってことが、誰かをおろそかに扱うみたいに感じちゃって……そんなことないってわかっているのに、だけど私は怖くって……」


 真っ青な、まっ昼間の空の下、私の声は潤んでいた。高校生にもなって、真夏の真上に太陽があるこんな開けた場所で、私は泣いていた。


「おろそかにしていいんだよ」


 何だか、老人の声が若返って聞こえた。私に合わせた言葉遣いなのだろうか、だけどその声に違和感はなく、そして優しさに満ちた声だった。


「――特別な誰かを大切にして、その代わりに誰かをおろそかにしたって構わないんだ」

「でもそんなことしたら嫌われちゃう!」


 怖い。嫌われるのは怖い。嫌われて、苛められて、そして大切な人も離れてく。そんなのはもう二度とごめんだ。


「――手を出して」


 老人はそう言って、優しく私の手を取った。しわくちゃの、ほんの少し皮の固い手が、私に触れて、思わず私の手はぴくりと強張った。

 老人は手のひらを開いて見せて、私の手とあわせた。老人の細いけれど大きな手は私の小さな手を僅かに包んだ。


「――精一杯広げて、人の手はこんなもの」


 そう言って、老人は私の手をきゅっと握った。冷たい、老人の手の感触を感じて、私の心臓はどきどきと、早く打っていた。


「二人も三人も掴めない。一人の手を掴むのが精一杯だ」


 老人はにっこりと笑った。私はじっと老人のしわくちゃの、少し傷のある手を見つめて、出来る限り優しく、老人の手を握ってみた。


「みんなを愛そう、みんなに愛されようなんて、一人じゃ大きすぎて受け止めきれない」


 言われて、私の頭の中に、ひとつの映像が浮かび上がった。




 私の元へ、たくさんのハート型のガラス玉が落ちてくる。私は精一杯腕を広げてそれを拾おうとするのだけれど、ひとつ二つを受けて、もうひとつと手を伸ばすけど、上手く受け取れず、そしてせっかく受け止めたガラス玉も取り落としてしまう。そんな滑稽な自分の姿。

 私のしようとしていたことは、つまりはそういうこと。

 全てを受け止めようとして、そして何一つ受け止められていなかったのだ。




「君は……」


 老人は今までない優しい声で言った。


「君は大切な誰かを想ってもいいんだよ」


 優しい声でそう言ったのだ。


 さて、と老人は一言置いてから、立ち上がった。もう、休憩は終わりなのだろう。さほど時間は過ぎていないけど、長い時間ここにいたような気がする。


「――あの……」

「うむ?」


 声を掛けると老人は振り返って私に小首を傾げて見せた。何だか愛らしいその仕草に私の胸がどきりとする。


「どうして私に声をかけたんですか?」


 ふむ、と老人は眉を寄せ、ほんの少しばつの悪そうな笑みを浮かべて、言った。


「君は笑うてしまうかもしれんがね」


 公園の入り口に、老婆が現れ、老人は手を上げて合図をよこす。老婆はそれに気付いて大きく老人に手を振った。


「――私も同じ悩みを抱えたクチなのだよ」


 君への話は、あれの受け売りなんだよ。と朗らかに笑った。

 傍にきた老婆に、老人は笑みを向け、老婆はほんの少し不思議そうに小首を傾げ、私に視線を向けた。


「もう、おじいさんったらどうして先に行っちゃうのよ」

「君が友達と長話をするからじゃないか。私は退屈でしょうがなかったから、少し散歩をしていただけだよ。そしたらこの子が話し相手になってくれてね」


 老人は私にウィンクをした。老婆はあらあら、と言って私にお辞儀をした。私もどぎまぎとしながらお辞儀を返す。


「――こんなおじいちゃんのお相手してくれてありがとうね」

「え、あ、はい……」


 老人は楽しそうに笑みを浮かべていた。私も何だか楽しくなっていつの間にか笑顔になっていることに気付いた。


「それじゃあ、そろそろ行こうか」


 きゅっと、老人が老婆の手を握った。麦藁帽子を軽く上げて、私に礼をすると、老人は軽やかに踵を返し歩き始めた。


「あ、ありがとうございました」


 私はそう老人の背中に礼を言うと、老人は片手をさっと上げるだけの返事をして、老婆と一緒に公園を去っていった。

 私はベンチから立ち上がって、軽く伸びをした。相変わらず空は青く、太陽は先程より少しだけ傾いていた。

 まだ学校は授業の真っ最中だろう。遅刻するのも、そう悪くはないかもしれない。

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