第25話
「三つ並んでいるのが、オリオン座でさ、あの一際大きく見えるのがベテルギウスで、そこから横に行くとこいぬ座のプロキオンで、それとおおいぬ座のシリウスとで冬の大三角形なの」
「オリオン座しかわからないな。あ、シリウスってのは聞いたことがある」
自転車を漕ぎながら、空を見上げた。オリオン座の三つ並んだ星しかちゃんとはわからない。
「小学校のときに理科で習わなかった?」
「習ったけど覚えてないだけ」
宇宙船があったら宇宙にでもいこうか、そう言うと宮町は至極真剣なまなざしで、いいね、と頷いた。
「私ね、一目ぼれだったのよ」
宮町が背中にもたれかかって呟いた。
「日比野くんってさ、私のお父さんに似てるの。雰囲気とかさ。――ずっと話したいって思ってて、そしたらあの日、ワタベさんと別れたあの日にさ」
「ワタベさんって、あのサラリーマン?」
あの日、宮町が突然話しかけてきたあの日に一緒に居た男。
「うん、そう。あの人、しつこくってさ。誰か助けてって思ってたら君が通りかかってね、なんていうか……運命だって思ったわ」
「変な運命だな」
「だって、私にはスーパーヒーローに見えたわ」
「なんだよそれ」
宮町が抱きつくように身体にしがみつく。冷たい風の中、宮町の僅かな温もりが伝わってきてくすぐったい。
――用意をしなくちゃね。
海岸を離れる前に宮町が言った。その目は先ほどまでの力ないものではなく、決意に溢れているように見えた。
自転車で宮町を家まで送り、俺は自宅まで戻って、お互い用意をして、それから駅で合流する。
目的地は決まってはいなかった。不安と焦りがないといえば嘘になる。だが、それを抑えつけるくらいの決意がそのときの俺にはあった。
緩やかな坂道を下って、普段通らない裏道を通り過ぎる。錆び付いた標識が立つ線路脇の道に、宮町の住むアパートはあった。
鉄骨の階段は錆び付き、蛍光灯はちかちかと今にも消え入りそうで心細い。自転車の荷台から降りて宮町はアパートの周りを確認した。
「大丈夫か?」
声をかけると宮町は白い息を吐いて小さく頷いた。手を合わせて息を吹きかけ暖をとる。
「車ないし、もう帰ったみたい……送ってくれてありがとうね」
「あぁ、じゃあ、また後でな」
時計に視線を落として確認する。
「うん。先に駅で待ってるからね」
一歩近づいて、宮町は俺の服の袖を摘んだ。俯いて赤くなった鼻を少し擦ってから、笑みを浮かべた。
「ついたら、ケイタイに電話してね」
頷いて頭を抱えるように片腕で抱いて、そして俺たちは別れた。
まだ夜も明けぬ早朝、自転車の挙動に合わせるように白い息が口から吐き出る。長い帰り道を一人で走りながら、俺は胸の中にこれまでのことと、これからのことを描いていった。
自宅に戻り、寝静まる家族を起こさぬように最低限の用意をした。服と、通帳と、とにかく思いつく必要なものを鞄に詰め込んでいった。
自分の部屋を軽く片付けて、電気を消す。主のいなくなった部屋はどこかがらんとしていて、そのとき初めて、自分がこの部屋に対して愛着を抱いていたのだと気付いた。
扉を静かに閉め、そして扉越しに両親に別れを告げた。言葉はあまり浮かばなかった。短い単語を重ねるように、今までの礼と、自分勝手に出て行くことへの謝罪。途端に胸が辛く苦しくなった。
静かな声への答えは返らず、俺は今にも詰まりそうな息を吐いて静寂の家を出た。
もう、始発は出てしまっただろうか、腕時計を見下ろしながら自転車を漕ぐ。まだ辺りは暗く、丸裸のイチョウ並木を全速力で駆け抜けた。
夜が明ける頃にはどこまで行っているだろうか。今日の夜はどこで眠ろうか。
駅へと向かうサラリーマンを追い越し、赤信号を待つ車の前を横切り、まだ人の少ない駅の前に立った。
てっちゃんと街へ行くときよく利用した。友達四人で海へ向かうときもこの駅から向かった。今年はお互い忙しくていけなかった。去年はまさかあれで最後になるとは思ってもいなかった。
このまま受験をして大学へと上がれば、この路線を使って通学することになっていただろうに。
自転車を止めて、駅を見上げる。唾を飲み込んで、胸の奥に残る不安を押さえ込む。もう後には戻れない。
自転車には鍵をかけなかった。ハンドルを軽く触れるように撫でた。そしてバッグを担ぎなおして俺は前へと進んだ。
階段を一歩ずつあがった。これを越えれば宮町が待っている。
朝は何を食べようか。どこかの駅で降りて朝食をとらないと。
そんなことを考えながら、ガムで汚れた階段を上がりきって辺りを見回した。改札には数人の人がいるが、切符売り場には誰もいない。
バッグを下ろして、中から携帯電話を取り出した。
慣れた手つきで彼女の番号をコールする。この夏から冬にかけて何度もくり返した動作だ。
静かな駅の構内で、コール音が数度響いた。
もう目的地は決まっているだろうか。出来ればまた海の見える町がいいな。
コール音と重なるように聞き慣れた彼女の着信メロディが流れた。あの彼女が好きな女性歌手の歌。
音のほうへと振り返ると、そこには誰もいなかった。バッグをそのままに俺は音の元へと導かれるように歩を進めた。
駅の掲示板の下、隠すように携帯電話は置かれていた。
「――どうして」
呟くように言って、俺はただその携帯電話を見下ろしていた。
――どうして。
長い間使っているのか少し表面が汚れた一世代古い彼女のケイタイ。
鳴り続ける携帯電話を切って、彼女のケイタイを拾い上げた。
そこには一枚の手紙が挟み込まれていた。
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