第24話

 走って俺は、宮町の名をもう一度呼んだ。

「宮町!」

携帯電話をその場に投げ捨てて海に入った。靴のまま海水に足をつけると、痺れるくらいに冷たく足に刺激が刺さった。

 宮町は上半身だけ振り返るとハッと目を見開いて、すぐに逃げるように海に向かって足を進めた。水しぶきが黒い海に白く跳ね返る。

「来ないで!」

 波を掻き分け逃げる宮町の腕を掴んだ。宮町は今にも泣き出しそうな声で手から逃れようと暴れる。

「もう私のこと放っておいて!」

「放っとけるかバカ! こんなことしてなんになるんだよ!」

 暴れる宮町を押さえ込むように身体を抱きしめた。胸の中でもがく宮町を強く抱きしめる。すでに冷えた身体は小さく震えていた。

 寒さで震える腕に何とか力を込めて、宮町の身体を重い荷物を持ち上げるように乱暴に抱き上げた。

「えっ? ちょ、ちょっと!」

 足をばたつかせて暴れる宮町を抱えて海から上がり、俺は砂浜に宮町と一緒に倒れこんだ。宮町は俺の上に覆いかぶさる形で乗りかかる。

 逃げてしまわないように、逃がしてしまわないように、宮町の身体をもう一度抱きしめた。

「放してよ……」

 弱々しく宮町が呟いた。

「――嫌だ」

「お願いだから、もう私のこと放っておいてよ……」

 黙って、俺は宮町を抱きしめていた。これ以上近づけないくらいに宮町を抱きしめた。宮町の少し弱い息と、走って息の上がった俺の荒い息が重なっていた。

「もう、私はいらない子になっちゃったんだよ。お母さんにも妹にも捨てられて、どこにも帰れないしどこにも行けない。終わっちゃったんだよ……私は」

 もがくように宮町は、身体を起こした。四つんばいで腹の上に乗る宮町の腕を俺は強く掴んで放さなかった。

「――そんなことない」

「あんたに何がわかるのよ!」

 俯いて目を強く瞑って、宮町は泣きながらヒステリックに叫んだ。

「毎日毎日、男に抱かれて、毎日毎日あいつに殴られて。助けてくれる人なんていなかった。話せる相手なんていなかった。でも……それでも妹のために頑張ってきた、我慢してきた」

 胸元に宮町の涙が数滴落ちた。今にも消え入りそうなか細い声がくり返す波音に混じって胸に響いてくる。

「捨てられたってわかって、すぐに妹のケイタイに電話したわ……。電話に出た妹はね、『どうしてかけてくるのよ』って」

 自嘲の笑みを宮町は浮かべた。涙を溜めた瞳がまばたきする度に、一筋涙が頬を伝った。

「――私の噂ってね、妹の中学まで広がってたの……。あの子そのせいで苛められてね。私、あの子を守りたくってあんなことしてたのに、私……」

 顔を胸に埋めて口篭った。

 俺は気付かず歯を食いしばっていた。

「――私、何してたんだろう? 妹のこと一番大切で、大好きだったのに、私のせいで、あの子傷ついて……」

 身体を起こして、宮町は言った。

「終わっちゃったんだ。何もかも。もう帰るところも行くところもない。だからさ、日比野くん。もう私は消えてなくなるから、だからもう……」

「――終わりなんかじゃない」

 目を見て俺は言った。ごくりと唾を飲み込み、吐き出すように声を出した。

「終わりなもんか、こんなところで。だってお前、頑張ったじゃないか。辛いこととか、苦しいこととか、全部一人で抱えてさ。それなのにこんな終わりってあるかよ」

 たった一人で耐えてきた宮町が、どうしてこんな仕打ちを受けなくちゃいけない。

「――だって、もう辛すぎるよ……こんなところにいるの」

 身体を起こして、宮町に向かい合い抱きしめた。細い肩を出来るだけ優しく。

 ――生まれて死んで、それが早いか遅いかの違いだけ。いつか死んでしまうなら、それまでに幸せになりたい。宮町はそう言っていた。

 その言葉を聞いたとき、俺はどこか違うと思った。

 いつか死ぬから、幸せを求めるんじゃない。そんな一人よがりな幸せなんて、絶対に手に入れることは出来ない。

「この数ヶ月の間さ、ずっと俺は満たされてた。たぶん、それは宮町がいたからだ。隣にいるときもいないときも、ずっと満たされていたのは宮町がいたからなんだ」

 あの日、海で隣同士並んだときから始まっていたのだ。ただ進めようとせずにいただけで、だけど小さく確実に進んでいた。

「――幸せって、一人で手に入れるもんじゃないと思う。たぶん、なんて言うか、分け合うものなんだと思うんだ。そうやって生まれた幸せって、きっとずっとどこかに残っていく」

 そう、残っていく。

宮町の父親が、僅かな記憶の中に、幸せを残していったように。

「――終わりなんかじゃないんだ。この夜だって、今日だってまだ終わってない。宮町にはまだずっとずっと先は続いてる。明日も、明後日も、一年先も、十年先もずっとずっと先が」

「先があって何になるの? 私は一人ぼっちでさ、私はもう頑張れないよ」

 あの夏に出会って、いつか来る別れを待ちながら、ただ日々を一緒に過ごしてきた。それはこんな終わりのためにあった日々じゃない。

「一緒に行こう」

 ――別れの先に残る思いのためだ。

「――帰る場所がないなら、行く場所がないんなら、俺が一緒に行ってやる。この先どこへだって行ってやる。いつもみたいに行きたいところに行ってやる。自転車でも電車でも、どんなに遠くたっていい。どこまでも一緒に行ってやる」

 きょとんと宮町は口を開けた。

「もう……もうお前を一人になんてしないから」

 囁くように言うと、宮町は身体に力を抜いて胸の中で泣いた。優しく抱いて、泣く宮町の頭を撫でた。

 涙を拭って、宮町は顔を上げた。静かで、心地よい沈黙が胸を熱くさせた。

 それは約束なのだと思った。ずっとずっと交わせなかった約束。いつかこの町から消える宮町とは交わすことの出来なかった約束。

 離れて見つめあい、そして宮町は視線を下に落として呟いた。

「連れて行って……」

「あぁ」

 頷いて空を見上げると、月は高くあがり、星が煌いて見えた。あの日、神社の帰りに見たときよりもずっとその星は綺麗に見えた。

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