第23話
携帯電話を耳に当てながら、俺は自転車を漕いでいた。波が返る音の中、宮町は静かな口調でゆっくりと言葉を紡いだ。
『――二年前にお母さんに恋人ができたの。お父さんが亡くなって十年も経ってるし、私は別に構わなかった。お父さんとは正反対な大きな体格をしていたけど、優しい人だと思ってた』
暗い声だ。時々上擦るのは泣いているからだろうか。
『――だけど、そいつはだんだん変わっていったの。酒を飲むようになって、お母さんからお金取ったり、お母さんと私を殴るようになったりして。妹も殴られそうになって、私はずっと妹を庇っていたわ』
宮町の怪我を思い出した。口元や目元を思い浮かべてあれがその暴行の痕だと気付いて俺は下唇を噛んだ。
『あれは去年のことでね。妹は中学の修学旅行で、お母さんは仕事で一日家を空けることになったの。私は仕方ないから友達の家に泊まることにしたんだけど、その子の家がちょっとごたごたしちゃって、結局その日、私は一人で留守番することになったの』
声のトーンが下がった。少し躊躇いがちに、宮町は言葉をこぼしていく。
『鍵をちゃんとかけて、窓もしっかり閉めてね。私は布団に潜ったわ。あいつが家に来ても絶対に上げないつもりだった。だけど……』
鼻をすする音が聞こえた。声が震えて響く。
『夜中にあいつがやってきて、玄関の前で開けろって叫んでた。私怖くて、布団の中で耳を塞いでたの。そしたら――あいつは鍵を開けて入ってきたの……。お母さんいつの間にか合鍵渡してたのね』
――私……。
宮町の声がそこで途切れた。長い長い沈黙がその答えだった。自転車を漕ぎながら、俺はハンドルを強く殴った。痛んだ手よりもずっと胸が痛い。掻き毟りたいほどに痛む胸を抑えて、ただペダルを漕いだ。
大きく風が吹き、潮の香りを運んでくる。
『一度は死のうって思った。生きていたくなくって、その日のうちにね。だけどそしたらさ、残される妹はどうなるんだって、私がいなくなったら今度はあの子の番じゃないのかって、そう思ったら……死ねなくなってさ』
海岸沿いの道を目を凝らして走る。道路に規則的に並んだ街灯だけを頼りに暗い砂浜に目を走らせる。
『だから、私はこの街を出ようって思ったんだ。妹と一緒に逃げ出そうってね。そのためにはお金が必要でね。それで私はあんなことして稼いでたの。くり返していくうちに段々慣れていく自分が怖かった。あんなにも嫌なことだったのにね』
――だけど妹のためになら頑張れたんだよ。
俺は自転車を止めて飛び降りて、海岸に降りた。
『――でもね……。今日、家に帰ると手紙が置いてあったの。お母さんと妹からの手紙』
深く暗い海に対してあまりにも頼りない光だけを頼りにして俺は宮町の姿を探した。
『――二人は家を出ていったの』
波の音が重なるように耳に反響した。
『私さ、置いていかれちゃった』
震えた声で、宮町は笑うような泣くようなどちらともつかない口調で言った。
そこで録音が終わった。俺は携帯電話を切って宮町の名を叫んだ。何度も叫んで海岸を走った。
砂浜には鞄と揃えられた靴と靴下が置かれていた。海に向かって伸びた足跡の先に、あの日と同じように真っ暗な海に一人で立つ宮町の背中が見えた。
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