第20話
翌夕頃になって、宮町は学校に姿を現した。宮町はいつも通り、誰とも目を合わせずに席に着くと、教室で一人、黙々と本を読み始めた。カバーをかけられた文庫本はタイトルが見えない。背筋をぴんと伸ばして、前に垂れた長い髪を時折背中に払って、静かに本を読みふけっていた。
俺はため息をついて、教科書を無造作に開いて黒板を眺めていた。白いチョークが教師の手によって走り、暗号めいた文を連ねていく。普段なら分かる内容なのだろうが、今の俺にはそれを考えるゆとりがなかった。
校庭の木はすっかり葉を落とし、地面には枯れ葉が汚らしく敷かれ、どこか空気が白く見えた。冷えた手をポケットに入れて、ただその白い風景を眺めていた。
もう一度ため息をついたところで授業が終わった。ホームルームを終えて、宮町はずっと読みふけっていた文庫本を閉じて、鞄の奥にしまうと、静かに立ち上がって、誰にも声をかけずに教室から出て行った。
いつもより冷たい。何も変わりない宮町の姿を見てふと、そう感じた。
俺も宮町に続くように何も言わずに教室を出た。
宮町の背中を追うように俺は階段を下りて、一人になるのを見計らって声をかけた。
「――宮町」
宮町は振り返りもせずに廊下を歩いていく。長い黒髪がふわりと揺れた。
「宮町っ!」
俺は知らぬ顔で歩く宮町を睨んで、すぐに走って腕を掴んだ。宮町は眉間にしわを寄せて振り返る。髪が小さく広がり、流れるようにおとなしくまとまる。
周りに誰もいないその廊下で、俺たちは初めて学校で目を合わせた。
「あのさ、何で話しかけてるのよ。ここ、どこかわかってるの?」
いつもよりずっと低い声で、宮町は言った。
「――昨日、帰りにお前を見かけた」
呟くように言うと、宮町の目が僅かに見開いたのがわかった。口元が噛み締められ、目を逸らして、小さく舌打ちをした。
「そういうことね……」
その一瞬だけ、宮町の声のトーンが変わった。高くもなく、低くもないその声は、何の感情も読み取れない乾いたものだった。
「――場所を変えよう、ここじゃあ、人が通るから」
俯いたまま、宮町はさっさと先を歩いていく。俺は彼女について行く形で校舎を出ると、彼女は人気のない校舎の裏手へと俺を導いた。
宮町は俯いたまましばらく口を噤んでいた。嫌な沈黙の中、俺は何を聞けばいいのか分からずにいた。
あの日と同じだった。宮町と初めて会ったあの夏と。
男と二人でいたあの日の宮町に、俺は何も聞けなかった。
このままじゃ、あの日と何にも変わらない。だがもう、宮町のことを曖昧なままにはしておけなかった。
「――どうして……」
嫌な汗が背中を伝う。冷たい風が頬を撫でて、ぞくりと身が震える。
――どうしてあんなことしてんだ。そう言おうとするのを遮るように宮町が口を開いた。
「どうして男と一緒にいたかなんて聞かないでね」
睨むように上目遣いで俺の目を見ていた。冷たく乾いた唇が、次の言葉を遮っているように思えた。
「知らなかったなんて言わせないわ、私の噂のこと」
思わず小さく息を吸い込み、肺に冷たい空気が流れた。
「知ってて、あんたは私と一緒にいたんでしょ? 初めて話したあの日だって私は男と会ってたんだしね」
「――知っていた。だけど……半分も信じてなかった」
いや、信じられなかったのだ。あの日常の宮町の姿を見ていたから。
「あのさ、残念だけど、私はこういうやつなの。――放課後にウリやって小遣い稼いでるような、ね」
「どうして、そんなことしてんだ」
口から滑るように、俺は呟いた。例えようのない苛立ちが俺の胸にぐるぐると渦巻いていた。
どうしてこんなに俺は苛立つのだろうか。
「――金になるからよ……それ以外にないでしょ」
宮町がまた小さく舌打ちをした。つま先で何度も地面を蹴って、小さくため息をつく。口調から苛立ちが読み取れた。
「だからって売春なんて……」
「何よ……」
静かに呟いて、宮町は鼻で笑った。
「今更、説教でもするつもり? それとも怒って引っ叩くのかしら」
睨みながら、宮町は嘲るように笑っていた。
「説教とか、そういうのじゃない……」
宮町は親指を強く握りこんで、視線を地面へとしばし泳がせた。
そして顔を上げると、呆れた様子で宮町は嘲笑の笑みを浮かべて言った。
「あのさ、あんた私のなんだったっけ? もしかして彼氏にでもなったつもりだった?」
今度は俺が眉をしかめた。それを見て宮町は声を出して笑った。
「何、ちょっと暇だったから遊んであげただけなのに、いつの間にかそんな風に思ってたわけ?」
両手を叩いて宮町はお腹を抱えた。
腹の底が震えた。俺は何も言えずに、目の前で俺を睨む宮町を睨んだ。
「あーあ、だから子供って嫌なのよね、すぐに勘違いしてさぁ」
ふざけないでよ。宮町はそう言ってため息をついた。
「もうさ、電話とかしないでくれる? こんなややこしいんだったら、初めからこんな遊びするんじゃなかっ―――」
気が付けば俺は手を上げていた。廊下に宮町の白い肌を叩く音が響き、赤くなった頬を宮町が押さえているのが俺の目に映った。すぐに俺の頬に痛みが走った。音は鈍く、宮町の拳が通り過ぎるのが見えた。
口の中が血で滲んだ。手を押さえて宮町は押し殺したような震える声で、小さく呟いた。
「もう二度と私の前に顔見せないで……もう見たくないわ」
握りこぶしを硬くしたまま振り返り、宮町は学校を出た。
口を拭うと血がついた。俺はずっと右手の手のひらを見つめていた。赤くなり、じんじんと熱く痛む手のひらは、殴られた頬よりもずっと痛かった。
苛立ちがまだ胸の奥に残っていた。俺に、宮町に、宮町の噂に、そして宮町を抱いた男たちに向けられた苛立ち。消えることのない苛立ちがただぐるぐると回っていた。
立ち上がって、鞄につっこんだままになっていた携帯をおもむろに手に取った。
少し前の時間に、宮町からの着信があった。今日はどこかへ行くつもりだったのだろう。
その晩、夜の一時過ぎに宮町から電話があった。俺はその日初めて宮町からの電話を無視した。
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