第19話
「お前さ、さっきキレそうだっただろ」
夕焼けが色を深くし、薄暗くなってきた頃になって、てっちゃんがおもむろに言った。
「宮町の話のとき、かなり頭に来てたんじゃないのか?」
鼻でため息をついて、俺は俯く。
「――まぁな……」
付き合いが長ければ、少しの言葉でも気付かれるものなのだな、と思った。さっきてっちゃんが話を強引に終わらせたとき、そうじゃないかと思っていた。
「実は俺さ……」
車の行き交う道路脇を歩きながら、てっちゃんがどこか遠慮しがちに切り出した。俺はマフラーを口元まで上げて、冷たくなった手をコートに突っ込んで、てっちゃんの言葉に耳を傾けた。
「――俺、お前らが一緒にいるの見かけたんだ」
夏くらいに。てっちゃんはそう付け加えて、黙った。俺は思わず振り返って、俯くてっちゃんを見てすぐに視線を前へと向けた。
「――日比野、俺から言うのもなんだけどさ、宮町は止めといたほうがいいと思うぜ」
「俺、別にそういうつもりじゃないから」
意識せずに、眉間にしわが寄っていることに気付いて、すぐに強く目を瞑った。
てっちゃんはふぅん、と鼻を鳴らして頷く。風が音を立てて通り過ぎる。
「そうか、ならいいんだけどさ」
言う言葉とは裏腹にてっちゃんは険しい目で俺を睨んでいた。
てっちゃんの言いたいことは分かる。あんな噂ばかり立つ宮町と俺がもし付き合うことになったとしても、それは俺が宮町に「食い物」にされているようにしか映らない。そういう疑惑を持たれても仕方がないほど、宮町を取り巻く噂は酷いものだった。
自然と、ため息が口から白い息になってこぼれた。大きく俯いて、それから顔を上げる。冷たい風を浴びても、ちっとも頭はすっきりしない。
丸裸の街路樹が並ぶ歩道を通りすぎて、歩道橋を越え、いつも買い食いをするコンビニエンスストアの前に立った。いつもてっちゃんと別れる場所だ。
「ま、あんまり考え込むなよ」
ため息交じりのてっちゃんの言葉に頷いて、俺も一度だけ白いため息を吐いた。
もうすっかりあたりは暗くなり始めていた。ところどころ街灯が灯り、白い光が電柱のそばを明るく照らしていた。
――悩んでたって仕方がない。
頭の中でぼやいた。いずれこの季節が過ぎる頃には宮町は引っ越してこの町からいなくなる。そうなれば、今、宮町の周りにある噂だっていつかは風化し忘れ去られるだろう。
その方が宮町にとっていいはずだ。こんな噂ばかりの小さな町で心狭く暮らすよりずっといいはずだ。
「じゃあ、そろそろ帰るわ。勉強もあるし」
手を上げて、てっちゃんに背を向けたときだった。
俺とてっちゃんの視界に宮町弥生の姿が映ったのは。
俺たちより先に帰ったはずの宮町は、見知らぬ男性と一緒に歩いていた。まだそんなに年を食っていない。三十代だろうか。きっちりとしたスーツを着て、メガネをかけた男は宮町の肩を軽く抱いて、笑みを浮かべる。
宮町は相変わらずの無表情で、視線は下を向いたままだった。
唾を飲み込んで、俺は車に乗せられて、街の奥へと消えていく宮町の姿を見ていた。
「――日比野……」
言いにくそうに、てっちゃんが何か言った。俺は歯を食いしばって、宮町たちが視界から消えるのをただ見つめていた。
「てっちゃん」
振り返りもせずに俺は呟く。
「――この事、誰にも言わないでくれよな」
そう言い残して、俺は走ってその場から逃げた。考えてはいけない。ただその言葉を繰り返しながら、混線する頭を一切整理しようとせず、ただ帰り道を全速力で走っていた。
その後のことはあまり覚えてはいない。ただ身体はだるくて、何もする気が起きず、眠ることも出来ず、鳴り続ける時計の針を聞きながら、頭の中に流れる光景をただ繰り返し見ていた。
ただ苛立ちだけが胸の中に渦巻いていた。止めることの出来ない苛立ちは一体何に向けられているのかわからなかった。
あの道の先にホテルがあるのは知っていた。どうしてだろうか、使いもしないのに、そういう情報だけは友人を通じて知ってしまう。今はその情報がどうしても憎い。
初めは、ただ孤独な彼女を一人にしたくなかった。一人で居続けようとする彼女が酷く寂しそうに思えた。
(こうして会ったのも何かの縁だし)
あの日の彼女の言葉がふと頭に浮かんだ。
あの言葉と、微かに寂しさを匂わす瞳に惹かれていたのだ。
だから、俺は何も考えないように心がけた。多くある宮町の噂も、初めて会ったあの日に一緒に居たサラリーマンのことも、何もかも。
だけど親密になるに連れて、だんだんとその手に、その身体に触れたいと思うようになっていく自分がいた。
いなくなると聞いてからずっと俺の気持ちは揺れ続けていた。宮町にとって自分はどんな存在なのか、単なる遊び相手の一人なのか、それとももっと特別なのか。
宮町の心が分からない不安がずっと俺を足踏みさせていた。
宮町は今頃あの男と一緒にいるのだろうか。もう時計は十一時を指していた。
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