第17話
「僕は、日比野正人。日比野忠行の息子です」
宮町の険のある目つきがきょとんと解けた。しばらく、辺りは波の音と、遠くの話し声だけになった。
「すいません。でも誤解しないで、僕は遊びでここに来たわけじゃないんだ。僕は父さんの――」
「ちょっと待って。――少し考えるから」
宮町は手のひらをこちらへ向けて、僕の言葉を遮った。しばらく目を瞑って宮町は眉間を指で押さえた。
「――どうして、日比野さんは来れなかったの?」
片目を開いて、宮町は僕を見つめた。
「父さんは……」
言葉に詰まった。僕の口から伝えるべき言葉だろうか。懐に隠したままの手紙を服の上から握り締めた。
「理由は僕からは言えない。でも……」
僕はゆっくりと懐に隠していた手紙を取り出した。
「渡したかったものって……それ?」
気付いて宮町が覗き込んだ。僕は小さく頷いて、宮町弥生に手紙を差し出した。
「父さんの伝えたいことは全部この中に入ってます」
手紙を受け取って、宮町は俯く。
黙って宮町は手元の手紙をしばらく見つめていた。冷たい風と、潮の香り、そして波音だけが僕らを包んでいた。
「君はこれを届けに来たんだね」
宮町はまた僕の隣に座った。ほんの少しだけさっきより距離を置いて。
僕に出来るのことはこれだけだ。この手紙を渡すことだけが僕が宮町弥生に出来るたった一つのことなんだ。
宮町弥生はため息をついて、笑みを浮かべた。
「あれだけ行ったリッカロッカのこと忘れてるのはおかしいと思ってたんだ」
星空が見下ろす錆びたベンチで宮町が一瞬、目を閉じて唇を噛んだのが見えた。
「日比野くん……」
静かに囁くような声で宮町が父さんの、いや、僕の名前を呟いた。
「私はね、君のお父さんに伝えたいことがあったのね」
「うん」
「だけどどうやって伝えたらいいかわからなくってね」
宮町は眉を寄せてこちらに首を傾げて笑みを浮かべた。
「でも今なら言葉に出来そうなんだ」
僕はただ静かに、宮町の言葉に耳を傾けた。
「――あの人の代わりに聞いてくれる?」
僕は、小さく頷いた。
僕が代わりに受けるにはきっと大きすぎるものなのだと思った。それでも僕は頷いた。伝えたい本人には決して届かない宮町弥生の言葉と気持ちを、父さんの代わりに僕が受け止めなければ、一体誰が彼女の言葉を受け止めてやれるだろうか。
僕は静かにもう一度だけ頷いた。
それを認めて宮町は、ゆっくりと、絡まった糸を解くような丁寧な口調で、ぽつりぽつりと話始めた。
「あの町から出て行ってからね、ずっと君のことを考えていたんだ。私が君に対してしたことは許されないことだってね」
頬を掻きながら、宮町は思いを少しずつ言葉にして拾い上げる。僕は波の音も聞こえず、ただ宮町の言葉だけを聞いていた。
「幸せになっちゃいけないって思ったの。幸せになることは、幸せを求めることは君を裏切ることになってしまうような気がしたから」
――父さんと同じだ。きっと父さんも宮町弥生と同じように考えたんだ。相手を置いて幸せになることが、相手を裏切ることになってしまうと考えたから、何年も父さんは一人でいた。
「若かったのよね、それしかないと思ってたのよね」
まるで自分に言い聞かすように彼女は言った。
「自分で自分に足かせを作って、それで自分を傷つけて、私って一生こういう風にしか生きれないんだって思ってた。――でも結局五年くらいで私の考えって変わっちゃったの」
「変わった?」
「うん。私なりに幸せを求めてみようってね」
彼女はどこか申し訳なさそうに俯いて笑った。僕も釣られて微笑を浮かべる。
「恋人が出来て、相手が大学卒業して、仕事も軌道に乗って、それから結婚して……。とんとん拍子に色んなことがあったわ」
――子供も生まれたし。付け加えるようにそう言う笑顔は優しい。
「どうして急に考えが変わったんですか?」
「私が幸せを願っていたから……かな?」
首を傾げて宮町は言った。
「願って?」
聞き返すと宮町は上目遣いに僕を見て、
「君の……」
と、呟くように答えた。
「ずっと君が幸せになればいいと思ってた。そう思ってたら、何だか君も同じように考えてるんじゃないかなって、勝手に思ったの」
今思えば自分勝手な考え方よね、と宮町は笑った。
「だからそれは裏切りにはならないと思ったの。――うぅん、思い込もうとしたのよ」
僕は頷いた。宮町も自分の言葉を確かめるように何度も頷きながら言葉を続けた。
「幸せに生きることを考えて生きたわ。子供にも旦那にも優しく、二人は私の一番大切なものになっていった。心も隅っこでは君も同じように幸せになってることを想像しながらね」
「――父さんも……同じだ」
同じなんだ。父さんも幸せを望んで生きた。
ハッピーエンドで終われたろうか、ずっと気がかりだった。
四十の若さで病気にかかって、長い闘病生活を間近で見てて僕は父さんがなんて不幸な人生なんだと勝手に思い込んでいた。
だから最期に父さんとたくさん話をした。父さんの好きだった本を読んで、父さんに本を持っていって、そうすることで父さんに少しでも幸せな時間を与えてあげたかった。
だけど違っていたんだ。
父さんはずっと幸せを求めて、幸せを願って生きてきたんだ。宮町弥生が考えたように、幸せに生きることだけを考えて、母さんと僕らと生きてきたんだ。
だから、最期の頼みが、宮町弥生のことだったのだ。
たった一つだけ残った心残り。それを僕に任せて父さんは逝ったんだ。
「――父さんも……」
父さんの人生をハッピーエンドで終わらせるのが僕に出来る唯一のことなんだ。
「父さんもあなたと同じだったんだ。ただ、あなたの幸せを願って、だから自分も幸せになろうって思って」
「うん」
上手く言葉に出来ているだろうか。昂ぶる気持ちを抑えながら言葉を拾い集める。
「結婚して、僕たちが産まれて……」
宮町が両手で僕の手を握った。
「――私も、あの人も、君も、幸せになれたよね?」
僕は言葉を繋げずに、一つ頷いた。
「辛いこととか、悲しいこととか、色々あったけど……きっと、幸せだった」
「私も……幸せに生きたよ」
僕はたぶん、泣いている。画面の向こうで泣いているんだ。
幸せだったよね。何度も問いかける。胸の奥にいる父さん、天の向こうで見ている父さん。父さんの大切な人はもう大丈夫だよ。
海の向こうに大きな花火が上がった。
もう終わりの合図だった。
僕らは無言で立ち上がり、それを見上げた。
「――宮町さん……」
僕は彼女の目を見て言った。
「もう、会えないですか」
静かに宮町は頷いた。
「会わないほうがいいよね」
――お互い、幸せ壊したくないし。宮町は笑ってそう言った。
僕はただ、やるせない気持ちでいた。
だけど僕はこの時、何も喋ることが出来なかった。父の死を伝えることも出来ず、僕はただ花火を見つめていた。
「――手紙、読むね」
頷いて答えた。君は泣くだろうか、君は怒るだろうか。そればかりが気になった。
一瞬だけ空に咲くその花を眺めながら、僕らは静かに別れを告げた。
(さようなら)
優しくて、どこか子供っぽいその声がいつまでも僕の耳に残っていた。
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