第13話


◆ ◆ ◆ ◆


 気付けばもう、秋が訪れていた。紅葉が終わり、道を隠すくらいの落ち葉が少し肌寒い風を暖かくしているような気がする。枯葉を踏む軽快な音が、俺の隣を歩く宮町をどこか楽しげな雰囲気に変えてくれる。

「顔、どうしたんだ?」

 宮町は左目のすぐ横をガーゼで覆っていた。

「ぶつけて痣になっちゃったのよ。かっこ悪いから隠してるの」

 顔をぶつけたというより、殴られたのではないかと思った。誰かとケンカでもしたのだろうか。

 宮町はたまに、こうして傷をつくってくる。腕や足に湿布を貼ってくるのをこの数ヶ月よく見かけた。

「痕が残らないといいけど……」

 ガーゼの上から人差し指でぽりぽりと顔を掻く。

 リッカロッカの扉を開くと、小気味いい鐘の音がなって、いらっしゃいと店主の立花さんが笑顔を向けた。

「今日はお客さんですよ」

 宮町がにっこりと笑ってテーブルにつく。やはりこの時間帯は人が少ない。

「やよ姉ちゃん!」

 奥から小学生の女の子が出てきた。立花さんの娘の雪ちゃんだ。

「こんばんは」

 そう言って挨拶をすると、雪ちゃんはどこか照れた様子で、小声でこんばんはと答えた。もうここに来るようになって随分経つのに、中々俺には慣れてくれない。

「雪、今日は弥生ちゃん、お客さんだから、ちゃんと注文を聞きなさい」

 立花さんがそう言うと、雪ちゃんはどこかめんどくさそうに口を尖らせながらも、張り切って声を出した。

「やよ姉、ごちゅうもんは?」

「うーん、じゃあミックスジュースもらおうかな」

 カタカナで少しよれよれの字を書く。宮町は楽しそうにその様子を眺めている。

「お父さん、ミックスジュースだってー」

「雪ちゃん、雪ちゃん、お兄ちゃんのも聞かないと」

 細くてさらさらの雪ちゃんの髪を宮町は優しく撫でながら微笑む。

 宮町と同じものを頼むと、雪ちゃんは少し緊張した面持ちでオーダーを取り、奥へと走っていく。

「子供、好きなんだな」

「うん。――私、子供産むなら女の子がいいなぁ。雪ちゃんみたいな女の子」

 ちらりと俺のほうに視線を向けて、悪戯っぽく笑いながら言った。

「結婚したらお金を貯めて、それから子供産むの。お金に困らないようにしてあげたいから、学費とか計算して、いけるようなら二人、無理なら一人かなぁ」

「そんなことまで考えてるのか」

「日比野くんは子供つくるならどうする?」

 言われてみて、俺は初めて頭の中にそのことを想像した。結婚して、きっとそのときには就職していて。

 同時に自分が小学生だった頃を思い返していた。一人っ子で、両親は共働き、留守番はいつも一人で、首から鍵をいつもかけていた。てっちゃんが習い事をしていなかった頃は、毎日てっちゃんを家に呼んでゲームをしたり、外で遊んだり。だけどてっちゃんと遊べない日は、いつも一人で家にいた。

「とりあえず二人、かな。俺、一人っ子だからさ」

「寂しかったの?」

 そう言って顔を覗き込む宮町に俺はため息と一緒に笑みをこぼす。

「だろうな。今思えば」

 ふぅんと宮町が軽く頷くと、雪ちゃんがミックスジュースを持って奥から出てきた。

「はい、どうぞ」

 もたもたと、テーブルの上に二つのジュースが並ぶ。宮町は、ありがとうね、と雪ちゃんの頭を撫でた。雪ちゃんは嬉しそうに笑い、こちらを伺う。俺も宮町と同じように褒めてやると、雪ちゃんはぺこりと頭を下げてまた奥へと行った。

「リッカロッカってね、雪ちゃんの名前からつけられたんだって」

 くるくるとミックスジュースをかき回しながら、宮町は流し目でカウンターの立花さんを眺めた。

「産まれる前から、雪ちゃんの名前って決まっててさ。この店をオープンする時になって思いついたんだって」

「ふぅん、立花だからリッカ?」

「そうそう。それでロッカは『六』に『花』で六花、意味は雪のことなんだって」

「立花雪でリッカロッカか」

 初めて聞いたときは変な名前の店だと思ったが、そんな話を聞くと妙な愛着が湧いてくる。店内をぐるりと見回す。そう高級でないだろうが、いい調度品が並び落ち着いた印象を与える。少ないテーブルと少ない椅子。カウンターの食器は綺麗に並べられ、店主の立花さんは物静かに仕事をしている。

「――ああ見えて意外と親ばかよね」

 小声でくすりと宮町が言った。笑いをこらえて、ミックスジュースを一口飲んだ。その様子を雪ちゃんはカウンターの影から覗くように見つめているのが見えた。

「雪ちゃん、こっちおいで」

 宮町が笑顔で手招きをすると、小走りで雪ちゃんは宮町の傍に寄ってくる。柔らかそうな髪を撫でる宮町とはまるで姉妹のように見えた。

「雪ちゃん、可愛いね。ねぇ、日比野くん」

 宮町が心底、楽しそうに言う。言われた雪ちゃんは少しはにかんで、顔を隠すように俯いた。

「そうだな。八つだっけ?」

 聞くと雪ちゃんは頷いて笑む。ちらちらと上目遣いでこちらを伺う。まだ照れているのだろう。

「宮町の妹もこんな感じだったのか?」

「こんな、なんて言い方はしないの」

 ミックスジュースを飲みながら、眉間に皺を寄せる。そして少し考えるような素振りで宙を眺めたかと思うと、グラスを置いて答えた。

「――そうだね、昔は雪ちゃんみたいで可愛かったわ。今は反抗期なのかしら、あんまり話さなくなったわ」

 グラスについた雫を少し撫でる。氷がカランと小さな音を立てた。

「最近は、ぴりぴりしててさ。すごい話しかけにくいのよ」

「どうして?」

 兄弟のいない俺にはいまいちピンと来ない。

兄弟とはいないものには理解しがたい存在だと思う。友人や恋人よりも近いようで遠く、親とは違う、自分と血の繋がった存在。仲の良いところもあれば、仲の悪いところもある。他人ではない他人、やはりよくわからない。

「――頭で考えすぎちゃうのよね」

 ストローでくるくるとミックスジュースを混ぜる。僅かに浮かんだ泡が氷とグラスの周りに絡みつき、からからと音を立てた。

「どうやって話そう、どんなことを話そう、昔みたいな風に話すにはどうしようって、いっぱいいっぱい考えるの。そしたらだんだんと気持ちのほうが抜けていって、なんか乾いた言葉になっちゃうのよね」

「考えるほど、気持ちが落ち着いてくる?」

「そう、それ。思考が感情を抑え込んでいくの。――曖昧な感情ってのを、思考で数値化していくみたいな」

 ストローを引き抜いて、先についたミックスジュースの泡を舐めながら、宮町は言った。

「苦しいこととか、嫌なこととか、悲しいこととか、そういう、気持ちを殺したいときなんかにはいいんだろうけどね。――苦しいのは今だけだ、嫌なのはすぐ過ぎる。考えて考えて、感情が抜けてしまえば、あとは過ぎていくのを待てばいいだけだからね」

 ――それって単に我慢してるだけじゃないのか。言いかけて俺は口を噤んだ。ふと学校での宮町の姿を思い出したからだ。感情を殺して過ごす学校での宮町の姿は思い出しただけで痛々しい。日常の、今の宮町の姿を知っているから尚更そう思える。

「だから私はね、感情のままに動きたいときにはおまじないをするのよ」

 こちらを向いて、少し明るい声で宮町は笑った。何だかそれは少し無理をした笑みに見えたが、そのことには気付かないふりをして、ジュースを一口飲んでから話を促した。

「へぇ、どんな?」

「頭の上に神様を作るの」

 思わず眉を寄せて、それとわからないくらい小さく首を傾げた。それまで静かに聞いていた雪ちゃんも、同じように首を傾げた。

「それで、私はどうしたらいいですかって聞くのよ。そしたら神様はいつも同じ答えを返してくるの」

 それって聞く意味あるのか。なんて言葉を俺は喉の奥に飲み込んだ。

「頭の上の神様はこう答えるの。――ほんとはもうわかってんでしょ?ってね」

「なんだそれ。神様のアドバイスにしては投げやりだな」

 自分の中で作った神様だから当然といえば当然なのだが、随分と役に立たない神様だ。

「でも、的確よ。だって自分がどうしたいかっていうのは本当は自分が一番よくわかってるんだもん。それにね、たくさん考えて計算した言葉よりも、少なくっても伝えたい気持ちを込めた言葉のほうが強い力があるのよね」

「――まぁ、確かにな。じゃあ、宮町はよくそのおまじないするのか?」

 宮町は宙に目を泳がせながら、しばし考えるそぶりを見せ、軽く笑って答えた。

「まぁまぁかな? 困ったときの神頼みだから多用は禁物よね」

「そのおまじないってどうやってするの?」

 黙ってジュースを飲んでいた雪ちゃんが興味を持ったのか身を乗り出して宮町に訊ねた。

「えとね、こうやって親指と人差し指をこするみたいにして……」

 宮町は懇切丁寧に妙なおまじないの仕方を雪ちゃんに教えていた。ご利益があるかどうかはわからないが、俺もそのおまじないを頭の隅に置いておいた。

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