第12話
てっちゃんの声が聞こえた。僕は一度振り返って手を上げて答える。
背中に宮町の視線を感じながら、僕はてっちゃんの待つテーブルへと向かった。絡みつくような砂が僕の足にまとわりつくように感じた。
「あれ、宮町のやつは来なかったのか」
てっちゃんは少し離れたところにいる宮町を見て言った。
呼ぼうかと思って振り返ると、女子の数人が宮町に話しかけているのが見えた。
「あーあ、女子に捕まっちまったかぁ」
女生徒に手を引かれる宮町が少し困ったような表情になっているのが見えた。そのまま宮町は女子のグループの中に入っていった。
「女子って結構宮町のこと、気になってただろうからなぁ」
「そうなのか?」
聞き返すとてっちゃんはどこか驚いた様子で僕を見た。
「そうなのかってお前……」
しまった。思わず聞き返してしまった。
僕は慌てて付け足すように言葉を漏らす。
「あ、あぁ、そういえばそうだったっけ」
「まぁ、昔のことだもんな」
てっちゃんがあきれたようにそう言った。
「あは……ははは……、最近物忘れが酷くってさ」
笑って誤魔化した。てっちゃんが大きなため息をついて、僕から視線を逸らして、宮町のいるグループのほうを見つめた。
「ま、宮町が気になるってのはわかる気がするけどな。あの頃のあいつって、いろんな噂があったからなぁ」
「何があったっけ。あいつめちゃめちゃな噂ばっかだったもんな」
思わず聞き返してしまいそうになり、黙って頷く。無用な発言はさっきみたいな失敗に繋がる。僕はひっそりと視界に映るメモで噂を探したが、具体的な内容については触れていなかった。
メモを閉じて黙って耳を傾けると、次々と宮町の噂についての話が小声で上がっていった。
「えっと、ほら数学教師の高山。あいつと援交してるとか」
「中山先輩の知り合いが宮町とホテル行ったってのもなかったか?」
「あったあった。いくらか金払ったら、好きにしていいとかのもあったよなぁ」
「料金表とか作ってたバカいたよな!」
ぎゃははは、と下品な笑い声が響いた。
僕は話に上手くついていけなかった。僕が呆然とその話を聞いているとてっちゃんが一つ咳払いして口を開いた。
「あいつって学校じゃ全然喋らねぇ、笑わねぇ、おまけに欠席、遅刻、早退の女王だったからなぁ」
根拠のない噂も立つわなと、てっちゃんは懐かしむように呟く。
「正直、噂の真偽なんてのは俺たちにとってはどうだってよかったんだよな」
てっちゃんはどこか悟ったような雰囲気で言った。僕はそれがどういった意味なのかわからず、それでも何も言えずにただ頷くだけだった。
しばらく僕らはそのまま沈黙した。皆、それぞれ過去を振り返っているのだろう。
「だけどこの中に、宮町のことをちゃんと知ってるやつなんていなかったよな」
噂ばかりがあって、そして突然に宮町は消えた。
「結局、クラスの中で宮町と関わりがあったのは日比野だけだったしな」
じろっと、皆が視線をこちらに向けたが、ため息をこぼすだけで言葉はなかった。
僕らはそのまま、昔を振り返り、そして今の話をした。どこへ勤めて、どうしてる。子供のことや、今度結婚する人。僕はその話をただ静かに聴いていた。
二十年以上という時間が、僕の知らない彼らの間に流れていた。いつか僕もこんな風に、自分の子供の話をしたりするのだろうか。
父さんがもし生きていたら、どんな気持ちでこの席に座ったのだろう。宮町弥生やてっちゃんとどんな話をしたのだろう。ここでどんな思い出を振り返ったのだろう。
今はもう遠くに行ってしまった父さんを胸に描く。父さんは彼らにこの場で何を伝えただろうか。
――宮町弥生に何を伝えただろうか。
ふと、その言葉が浮かんで、心臓がぎゅっと縮まるのを感じた。
たくさんの記録と、情報があっても父さんの心がどこにあったのかがわからなかった。
――僕に出来ることはないのだろうか。
このままで本当にいいのだろうか、父の死も知らせずに、このままで。
「――日比野もなぁ、世話の焼けるやつだったよな」
唐突に、てっちゃんが僕の肩を叩いて言った。
「な、なんだよ」
突然に話を振られて僕は内心焦りながら答える。
「お前が結婚できたのは俺のおかげだってこと忘れてないかぁ?」
顎を軽く上げて、てっちゃんは眉を寄せて口を尖らす。そして肩肘をテーブルについてぶつぶつと言葉を漏らした。
「春子さんがなぁ、お前のせいで何度も泣いてなぁ」
泣いている母さんをまた僕は思い出してしまった。初めて見た母さんの涙は、父さんが病室で息をひきとったあの時だけだ。
僕は何も言えず、ただてっちゃんの独白に聞き入っていた。僕の反応なんて気にもかけずにてっちゃんは話を続ける。
「自分は幸せになっちゃいけないからとかわけわかんねぇ理由で、春子さん振ったりよぉ」
――幸せになってはいけない?
ハッピーエンドの小説ばかりを読んでいた父さんしか知らない僕には、その言葉が信じられなかった。だが考えてみれば当然だ。父さんにも誰もが通る葛藤の時期があったはずなのだ。それを経たからこそ今の父さんがいるのだ。
僕は変な納得をしながら返事をする。
「――そ、そんなこと言ってたか?」
もっと父さんの話が聞きたくて僕がそう言うと、てっちゃんは大きく何度も頷いて、眉間にしわを寄せて言った。
「言った言った。それからまるまる三年くらいかかってようやく付き合い始めたと思ったら、すぐに結婚してよぉ。――んでもまぁ、あの頃のお前ってかなり不安定だったもんなぁ。これでも俺はかなり心配してたんだぞ?」
――その頃に父さんは変わったのだ。
三年の期間を置いて、父さんの中にあった考えが形を変えたのだ。幸せになってはいけないと自分を戒めていた父さんが、母さんと出会って……。
きっと母さんが父さんの考えにひとつの答えを指し示したのだ。
何だか笑みがこぼれそうになって、必死でそれを止めた。
母さんが父さんを変えたんだ。
自分に都合のいい解釈にすぎないだろう。そう思ったが、それでもそれが間違いではないであろう自信が僕の中に生まれていた。
「そ、そっか。すまんな」
照れ隠しに言葉を返すと、てっちゃんはため息一つついてニカっと笑った。
「変わらないな、お前は」
一口グラスに口をつけたてっちゃんの微笑は、今までと違って大人に見えた。中身は大人なのだから当然なのだが、何だかその姿に反した仕草はどこか可笑しく思えた。
僕も真似て一口だけ口に含んだ。皆の目にはどう映っているだろうか、やはり滑稽に見えるのだろうか。
ちらりと振り返り、宮町を見る。彼女はどこか困ったような笑顔を浮かべて話をしていた。
視線がちょうど重なって、宮町はくすりと笑って、口元をちょんちょんと人差し指で押さえた。うっかり口が開けっ放しになっているのに気付いて口を閉ざした。
何だか可笑しくなって僕も笑った。
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