第10話
高い背は木と並ぶほどで、俺と宮町は少し離れたところからそれを見上げていた。黄色と茶色の斑な模様は、生き物ではなく絵画のように思えるほど美しかった。
宮町は手すりから今にも身を乗り出しそうになりながら、目の前の生き物を見入っていた。彼女のその頬が僅かに緩んでいるのが分かる。
俺たちはしばらく園内を回り、最後の締めとして、宮町が心待ちにしていたキリンの前へと立っていた。
隣で目を輝かせる宮町は、幼く、子供のように思えた。いや、俺たちはまだ子供だ。世間を何も知らない子供なのだ。
学校で見る宮町弥生とはまるで違う少女の姿に、俺は思わず微笑を浮かべてしまう。
愛おしい、という感情なのではないだろうか、ふとそんなことを考えてしまう。
「すごいね、大きいね」
宮町が言う。その子供っぽい喋りが彼女の外見とはまるで違って、どこか可笑しい。
「そうだな」
「足がさ、すごく細いの」
「あぁ」
宮町は本当によく喋る。学校では声を聞くことも珍しい彼女が今、隣でこんなにも楽しそうに笑い、話している。
宮町の目が僅かに潤んでいた。宮町はそれを隠すように俺から顔を逸らして、指で目元を拭う。
俺はそのことに気付かない振りをして、キリンのほうを眺めた。隣の宮町はしばらくして軽く赤くなった目でキリンを見つめ続けた。
「ねぇ、カメラ撮ってよ」
「キリン?」
聞き返すと宮町は小さく頷く。俺は少し離れて、宮町がフレームに入るように調整して、一枚シャッターを切った。宮町は写っていることに気付いていないのか顔も作らず、カメラを構える俺を見つめていた。
終わると宮町はにっこりと笑みを、どこか寂しそうに浮かべた。
宮町はきっと何か溜め込んでいるのだろうと思う。俺の知らないところで、たくさんの思いを。きっと簡単には吐き出せない思いを。
「――やっぱり見に来てよかったわ」
宮町はしみじみと、のそのそ歩くキリンを眺めて言った。
「こんなとこ、来ようと思わないと来ないもんな」
キリンの引き締まった筋肉と流れるボディラインは美しく、そこに存在するのが当たり前かのように、風景に溶け込んでいる。
「終わりがいつ来るかなんてわかんないじゃない」
宮町が唐突に呟いた。
「いきなり道で車が突っ込んでくるかもしれないし、隕石がびゅーって私めがけて飛んでくるかもしれないじゃない?」
「まぁ、確率は低いけどな」
何を言いたいのかわからず俺は苦笑いで相づちを打つ。何でもかんでも唐突なやつだ。
「でもそういう『運の悪いやつ』ってどこかにいるのね」
なぜ断定なのか、と言い掛けて黙った。
「まぁ、長生きすればそれだけで運がいいってわけでもないけど。でもいつかは死ぬのは皆変わらないのね」
「にんげんはしぬためにうまれてきた?」
どこかで聞いたような台詞だ。この台詞を初めて聞いたとき、考えたやつは絶対根暗だと思ったっけ。
「死ぬために、じゃないけどね。――まぁでも、生まれていつか死ぬ。それが早いか遅いかの違いだけなのね」
生に対して随分と後ろ向きな考え方だ。そう思った次の瞬間、宮町が笑んで言った言葉に、俺は首を傾げた。
「人間いつか死ぬんだったらさ、私はそれまでに幸せになりたいのよね」
その笑顔は、無邪気な子供の笑顔そのままだった。影のない、裏もない、宮町の感情をそのままに表した笑顔だった。
「だから私は一日だって無駄にしたくないの」
何とも言えない不安が胸に押し寄せてきた。
「だからこんなにいろんなところに行くのか?」
「うん」
生き急いでいるような、今にも消えそうな、そんな雰囲気が今の宮町にはあった。
後ろ向きのような前向きのような、困惑する宮町の考え方に戸惑いながら、だけど俺はそれを隠して、ごく自然を装って宮町に訊ねた。
「なぁ、宮町」
「うん?」
宮町が振り返ってこちらを見つめた。
「まだ、どこか行きたいところはあるか?」
「あるよ、たくさん」
言い終わると同時に考えるそぶりも見せずに宮町は言った。
「今年中にさ、色んなところに行きたいのよ。私ずっとこの町で暮らしてるけど、全然知らないからさ」
友達いないからさ、と宮町は苦笑いを浮かべる。
「今年中って、そんな急がなくても、来年だってあるじゃないか」
そう、来年だってある。今年はシーズンを過ぎてしまったけど、来年には海にだって泳ぎに行けるだろう。今年は結局、時間が合わず、てっちゃんたちとも海に行けなかった。
「――無いよ」
宮町は俯いて静かに微笑を浮かべた。
「私、もうすぐこの町からいなくなるから」
静かにそう言った。腹の上がぎゅっと痛んだ。ごくりと唾を飲み込み、俺はただ宮町を見つめた。
「だからさ、思い出を残したいの。友達と過ごした思い出をね」
「何で……」
上手く言葉が出なかった。
「引っ越すのよ。冬くらいになったらね……。って暗くならないでよ。まだ先の話なんだから」
宮町はそう言って笑って、ばしばしと俺の背中を叩いた。
「す、すまん、いきなりだったから……」
むぅ、と宮町は眉を寄せて、まだ暗い、と唇を尖らした。
俺は笑った。頭の中はそのことでいっぱいだったけど、とにかく笑うことにした。
学校の外での宮町は、まるで違っていた。よく喋り、よく笑い、俺はそんな宮町がいつまでも笑っていられるように、溜め込んでいる何かを少しでも発散させてやれるように、何があっても彼女の前で、ただいつものように笑顔を向けることを心に決めた。
――生まれていつか死ぬ。それが早いか遅いかの違いだけ。
宮町の言葉が頭の中でくり返された。
――人間いつか死ぬんだったらさ、私はそれまでに幸せになりたいのよね。
それは違うと心の中で呟いた。
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