第6話


◇ ◇ ◇ ◇


(――悲しい話がさ、終わりまで悲しいと救われないだろ)

 小説を読み終えた僕に父さんが言った。目の下にはクマがあり、すっかり落ちた筋肉が腕を細く見せていた。

 ――だから父さんはハッピーエンドのやつばっかり読んでるのか。

(――あぁ、読み終わりがすっきりしててな。好きなんだよ)

 もって一年と、癌の告知を受けて、ちょうど七ヶ月が過ぎた頃だった。

 まだ四十六歳で、平均寿命の半分だって生きられない父さんが、窓から入り込む陽光を背に受けて、微かな笑みを浮かべていた。

 僕はそんな父さんから目を逸らして、同じように笑みを浮かべた。

 父さんはハッピーエンドで終われただろうか、ハッピーエンドを見れただろうか。

 それからちょうど二ヵ月後に父さんは亡くなった。

 ――ハッピーエンドで終われたのだろうか。

「お、来たぞ。ほら、あっち」

 てっちゃんが指差した方に、長い黒髪を風になびかせて歩く宮町弥生の姿が見えた。ゆっくりと歩く彼女は、どこかこの賑やかな海岸には似合わないように思えた。

 僅かながら、微笑を浮かべている。まっすぐと僕の、いや父さんのほうを見て歩いてくる。

 誰も宮町弥生に声をかけようとはしなかった。

「久しぶり、日比野くん」

 宮町弥生はどこか作り物のような笑顔で言った。

「久しぶり……」

 うん、と宮町弥生は頷く。奇妙な雰囲気が宮町弥生と僕の間に流れた。

 周りの視線が痛いくらいに集中していた。その気まずい場の雰囲気に気付いたのか、真っ先に声を出したのはてっちゃんだった。

「お、お互い積もる話もあるみたいだから、ちょっと離れて話せ」

 僕の肩に手を乗せて、てっちゃんは言った。宮町弥生に視線を向けると、彼女は無言で頷いて返す。てっちゃんなりに気を使ってくれたのだろう。

 周りの視線を感じながら、僕は宮町弥生を連れて海岸の隅へと歩いた。

 さくさくとした砂の感触を感じながら、隣を歩く宮町弥生をちらりと見る。

 写真以上に綺麗に見える。ネット上に作られた姿なのはわかっているが、やはり見惚れる。

 同時に胸元になにか違和感を感じた。

 海岸の隅のテトラポッドの見える場所で僕と宮町弥生は腰を下ろした。

 何を話していいのかわからない。長い沈黙が二人の間にあった。

 先に口を開いたのは宮町弥生だった。

「本当に久しぶりだね」

「あ、あぁ……」

 高校以来、一度も会ってないと父さんは言っていた。二十数年振りの再会に宮町弥生は少し緊張しているのか、声が僅かに震えていた。

その僕も何を喋ってもぼろが出てしまいそうで不安だった。

「今、仕事何してるの?」

「あ、あぁっと……電化製品の会社で営業部長やってるよ」

 確か、そんな肩書きだった。

「ふぅん……どんな仕事?」

「えっと……」

 もちろん、僕が父さんの仕事を詳しく知っているわけもなく、思わず言葉に詰まる。不思議そうにこちらを覗き込む彼女から目を逸らした。

「ご、ごめん、説明しにくい。――そっちは何やってるんだ?」

 そう言って僕は話題を宮町の方へと逸らした。

「デパートの食品売り場でパートしてる」

「へぇ……」

 パートと聞いて、ふと、中身が四十代のおばさんであることを思い出した。

 うっかり宮町弥生を女子高生と勘違いしていた。こう見えても彼女は父と同じ年齢なんだ。

 ぱたぱたと、宮町はかかとで何度かコンクリートを叩いた。そんな仕草がどうも子供っぽくて、僕はやはり彼女のことを見間違えそうになってしまう。

「仕事って楽しい?」

「あ、あぁ、やっぱりやりがいとかあるし……」

 知らないことを知ったような口で言う。変な感覚だ。

「そっかぁ……ふぅーん」

 興味なさそうに宮町は何度か頷いてみせた。僕は沈むことのない夕陽に照らされている宮町の姿を静かに眺めていた。

 作り物の世界の作り物の体だけど、宮町弥生の姿は美しかった。そう、可愛いとか綺麗とかじゃなく、ただ美しかった。

 長い黒髪は艶やかで、夕陽に赤く染まる白い肌は透き通るように滑らかで、整った顔立ちはきっと当時なら、道行く人の多くが振り返ったことだろう。

 きっと彼女は学生時代、クラスから浮いていたのだと思う。久しぶりに顔を出した同窓会で、誰も彼女に話しかけなかったのが何よりの証拠だ。

 父さんは宮町弥生に関することの多くを記録に残していた。

 もう助からないとわかったときから、準備を始めていたのだろう。宮町弥生との間にあった出来事が事細かに記されていた。

彼女が母子家庭で育ったこと、たくさんのあらぬ卑猥な噂が立っていたこと。誰とも喋らない無口な人。そして誰よりも大人びた子供だったこと。そして父の大切な人だということ。

「そうだ」

 宮町弥生がふと呟いた。夕陽を見つめ、そして僕の目を見つめて言う。

「君にさ、謝らなくちゃいけないって思ってたんだ」

「謝る?」

 うん、と宮町弥生は頷く。

「あの時、一人で行ってしまってごめんねって」

 彼女の言う「あの時」の出来事を頭に浮かべる。二人の間でだけ通じるその言葉に僕は小さく頷いて答えた。

「別にいいよ。気にしなくて」

「そっか……ずっと気にかけていたんだよ。あの時のこと」

 宮町弥生は長い黒髪をかきあげて、笑みをこぼした。僕は小さく頷く。きっと父もその時のことを気にかけていたのだろうと思う。

 お互い、思うところがあるのか、僕たちはしばらく黙っていた。しばしの沈黙の後、僕は宮町弥生に訊ねた。

「同窓会、今までずっと顔ださなかったんだってな」

「うん、あんまり高校ちゃんと行ってなかったから……やっぱり私って友達いなかったみたいね」

 どこか他人事のように宮町弥生は笑った。

「覚えてるの日比野くんのことだけだよ。私のあの頃は日比野くんに満たされてたみたい」

「な、何だよその言い方」

 夕暮れに頬を赤く染める宮町弥生が目を細めて悪戯っぽく笑った。

 よいしょ、と宮町弥生は少しだけ腰を上げて、僕との間を詰めた。肩が触れ合う。

 心臓が高く音を立てるのがわかった。夕焼けで頬が赤いのかそうではないのかがわからなくなった。

 喉元が熱い。

「こうして、君の隣にいる未来もあったんだろうね」

 心臓がどきどきと、そしてずきりと痛む。

「だ、だけど、今は違う……」

 そんな未来なんかない。そう言いそうになった。

「うん、違うね」

 どこか寂しそうに宮町弥生は俯く。でもどうしてもそれだけは頷くことが出来なかった。

 不思議な感覚だった。隣に座る、父の過去の人。

 父以外を見ようとしないその目がどこか僕には怖く映った。まるで父以外の過去を持たないようなそんな危うさのある視線だった。

「日比野くん、結婚してるの?」

「あ、あぁ。子供も二人いる」

 ふぅん、と宮町弥生は軽く頷き、そしてにっこりと笑う。

「私も。娘が一人、高校生になるの」

「結婚、してたんだな」

「意外だった? お互い、大人になったんだよね」

 きっと、あの時を振り返っているのだろう、宮町弥生は霞む夕陽を見つめていた。

「でも今日は、あの時の気持ちに戻りたいの。駄目かな?」

 肩にもたれてかかり、宮町弥生は呟いた。僕は答えることが出来ず、口を噤む。

「ねぇ、手だけ握って」

 宮町弥生はそう言って僕の太ももに手を乗せた。

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