第3話
擬似空間が作り出した部屋の扉の前で、行き先を選択してから僕は扉を開けた。気にならないくらいの少しの読み込み時間を過ぎて、扉の向こうに夕暮れに染まる海岸が広がった。
まるでどこでもドアだな、と思う。振り返るとすでに自室は消え、小さな白いからっぽの部屋になっている。
海岸なんかでするんだ。まるで同窓会という雰囲気にそぐわないその場を僕はぼんやりと眺めていた。
波の音が静かに響く。潮風のあの独特の香りが鼻を抜けていく。作り物の世界だと言われなければ気付かないのではないかと思ってしまう。
「お、日比野じゃないか!」
名前を呼ばれ、驚いて振り返ると、一人の少年が立っていた。日に焼けた真っ黒な肌に、スポーツ刈りの少年が、手を振ってニカっと笑った。
今日、この場所に来るのは同窓会のメンバーだけだ。僕は視界の隅のメモで、正面に立つ少年を検索した。
「お、おぉ、久しぶりてっちゃん」
加賀哲也。目の前の少年は(少年の姿とはいえ、中身は四十を過ぎた中年なのだが)父の小学生時代からの友人で、愛称はてっちゃん。当時はスカートめくりを一緒にした仲だという。
読んで思わず吹き出しそうになるのをこらえる。
堅物の父もスカートめくりなんて古風な悪戯をしていたんだな。でもさ、父さん、そんな記録までわざわざ残さなくてもいいのに。
一応、父の膨大な記録にはざっと目を通してはいる。当然記憶できるわけないので、こうしてメモに最低限の記録を書き写しておいたが、やはり不安だ。
「あははは、懐かしいなそのあだ名」
てっちゃんは笑って手を叩いた。
「最近は、課長だの加賀さんだの、そんな風にしか呼ばれないからなぁ」
そう言いながら、てっちゃんは、海岸に集まる人たちのところへ僕を連れて行った。皆、それぞれ学生時代の姿をしていて、何だかやはり不思議な感じがする。
いくつかのテーブルが、砂浜に並べられている。飾りつけされたそれらには、グラスがいくつも置かれ、皆、それらを取って口にしている。
途中、何人かに声を掛けられ、僕はメモをめくる暇もなく、ただ、久しぶりと慌てて答えることしか出来なかった。やはり自分の記憶は当てにならない。
僕のグラスに赤みがかったピンクグレープハイを一杯注いで、てっちゃんは手に持ったビールを前へと突き出した。
僕はてっちゃんとその周りのまだ顔を確認していないクラスメイトたちと乾杯を交わした。
「それにしても本当に久しぶりだな、最後に会ったのはいつだったっけ」
「――ええっと」
また視界の隅でメモをめくる。加賀哲也のもっとも最近の記録。
「まぁ、いいか。とりあえず五年ぶりくらいだよな」
がくり、と僕はメモを閉じた。
気ばかりが焦る。この他人ばかりの場所で、父の振りなんて本当に最後まで出来るのか不安だ。
「俺が結婚して、お前が結婚して。それからだよな、お互い忙しくなってさ」
「そ、そうだな」
上手く返答できてるだろうか、何を話せばいいのだろうか。父の友人たちの前でただ内心おろおろとしていた。
注がれた酒を一口飲む。まだ慣れない酒の味。とはいえ、仮想のものだから、酔いが回るわけではないのだけど、雰囲気作りというやつだろう。
「春子さんは元気にしてるか?」
おもむろにてっちゃんがそう言った。
――春子? あぁ、母さんのことか。
「あぁ、まぁ元気にしてるよ。そっちは?」
そう言ってみて、母の沈んだ表情が頭に浮かんだ。
喪服姿で、物言わなくなった父の冷たい頬を撫でていた。愛おしそうに、ただ静かに。
(お父さんにはね、昔とても大切な人がいたのよ)
今にも泣き出しそうに見えた。きっと僕の前だから母さんは泣くのを我慢していたのだと思う。
(それでもお母さん、お父さんのことが好きでね、何度も振られたのよ)
母さんが震える唇を隠して目を瞑った。僕は何も言えずに目を逸らした。見ていることが出来なかったんだ。
言葉の端々が嘘で固まることを感じながら、僕は笑顔を浮かべた。
「まぁまぁ、息子共々元気ってところかな。病気も怪我もねぇし」
メモに、今年大学を卒業する息子がいると記載されている。この人の子供は僕よりもずっと年上なのかと考えると、こうして隣で話をしていると奇妙な感覚を覚える。
「俺の下の子もようやく高校生になったんだ」
父さんの気持ちになって、僕は言った。嘘にならないように、弟の秀明のことを考えながら答えた。
「じゃあ上の子は今年受験か?」
「あぁ、今受験勉強の真っ最中だよ」
そうかそうかと、てっちゃんは苦笑いを浮かべた。
僕は会社の話題を避けて、家族のことを話した。仕事をしたことのない僕には仕事のことなんてわからないし、いつぼろが出るかわからない。だけど、自分を含め、父の気持ちで僕らのことを話すのはどこか滑稽で、そしてどこか胸が痛んだ。
「しかし今年はよく人が集まったな」
てっちゃんがあたりを見回して言う。
「今年は、いつも出席しないやつらも来てるからな。お前を含めてな」
「仕方ないだろ、仕事抜けられないんだから」
はいはいと、てっちゃんは手を振って答えた。言葉の調子の割りに、てっちゃんはどこか楽しそうに笑う。
本当に四十を過ぎたおじさんなのかわからなくなってくる。それほど目の前のてっちゃんは僕の周りにいそうな高校生男子に見えた。
「そうそう、今日はあの宮町も来るんだってよ」
てっちゃんの言葉にどきりと心臓が鳴った。
――宮町弥生。内ポケットの手紙に触れてみる。一体、父さんはどんな手紙を残したのだろう。
「そろそろ来る頃だろうと思うんだけど……お、来たぞ。ほら、あっち」
てっちゃんが指差した方に、長い黒髪を風になびかせて歩く少女が見えた。
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