第2話

(正人、最後に頼みたいことがある)

 真っ白な病院の一室で、父は弱々しい声でそう僕に告げた。

 父がもう長くないと僕らが知ったのは一年前のことだった。酒も煙草もしない父が癌にかかるなんて信じられなかった。

 今思えば、良い父だったのだろうと思う。親しく会話をするわけではなかったけど、物静かで、僕の行動に文句一つ言うこともなく、ただ間違っているときはそれを正してくれる、そんな父だった。

 父は本をよく読む人で、会社に行く途中、駅で買うのだろう文庫本が、部屋の本棚に無数に並べられていた。少し話題になった本なんかは、いくつか父には言わずに勝手に借りて読んだりしていた。

 そんな父は病院でもずっと本を読んでいた。長い入院生活は退屈そうで、テレビを見ない父は必然的に本を読むことが、最大の娯楽になっていった。だから僕と母は、父が気に入りそうな本を見つけては買って、毎日父へ本を届けていった。

 父の書斎から持ち出して一冊ずつ、僕と弟はそれを機に色々な本を読んだ。

 ――これ、もう全部読んでるの?

 紙袋に入れてある小説を指差して聞くと父さんは弱い笑みを浮かべて頷く。

(終わりまで読まないと気になるだろう?)

 新刊を持っていくと、父さんは必ずそれを一日のうちに読んでしまった。

 体調が崩れ始め、本も長く読めなくなった頃、僕は新刊を持っていかなくなった。終わりまで読めるか分からなかったからだ。

 それから本を読まなくなった代わりに、僕と弟に多くの小説を読むように勧めた。僕らは交代でそれらを読み、その小説の話を父さんとした。

 どうしてもっと前にこうしなかったのだろう、兄弟同じようにそう思った。もっと早くに父の持っている本を読んでいたら、もっとずっと前から、父とこうして本の話をできたのに。

 だから僕らは、毎日本を読んで、見舞いに行くときはいつも読んだ本を持って父さんと話した。僅かに残された父さんの時間を、せめて父さんの好きだったもので埋め、それまで希薄だった家族の会話を、より濃密にしたかった。

 そんな父が最後に口にした頼みだった。

(今度、私の高校時代の同窓会があるんだ。それまで私が死んだことを隠しておいて欲しい)

 古い友人たちの再会の場を悲しみにしたくない。父はそう言った。

(正人、私の代わりに、この同窓会に出席して欲しい。そして――)

 父は一枚のディスクを震える細い手で取り出した。

(ここに入っている記録を、宮町弥生という女性に渡して欲しい)

 それを届けることができれば、中身を見るも捨てるも好きにしていい。ただ届けることができなければ、そのまま見ずに捨てて欲しい。

 そしてしばらくして父は息を引き取った。

 父が最後まで気にかけていた母さん以外の女性。どうしてこんなことを自分に頼んだのか、僕には分からなかった。

 母さんはそのことに関して何も口にしなかった。ただ、正人に任せるわ、とだけ言った。

 そのとき、僕には父さんの考えも、母さんの気持ちも、何一つ分からなかった。分からなかったが、だからこそ、父さんの残した遺言を実行しようと思ったのだ。

 扉の前で、僕は内ポケットの手紙にもう一度触れた。心臓がどくどくと高鳴るのが感じられる。これはこっちの心臓か、現実の心臓か。大きく深呼吸をした。

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