スイング・バイ
幕引きは楽しいものじゃなかった。というか、ああなったって結局、死ぬまで四人でやるもんだと思ってた。こんなになった僕が言うのもなんだけど、治ったらどうせすぐ集まるもんだと思ってた。
本当なら、引き止めたかった。いつものオレならそうしてた。でも、こんなになって、自分の耳がまた聞こえるようになるまで待ってくれなんて、そんな無責任なことは言えなかった。言えばよかった。
正直、後悔している。
まあでも仕方なかったんだろうな。僕の耳も結局借物・貰い物だったし、それで長い長い夢を見せてもらったと思えば、仮にこの先の人生がずっと真っ暗でもお釣りがくる。それぐらい、目映い思い出達が、記憶のそこできらきらと輝いている。背伸びして必死こいて楽譜に齧り付いて、才能に溢れた他の三人に置いていかれそうになりながら、ひたすら目の前のがちゃがちゃした楽器を長細い棒で叩くだけの日々。青春と言うにはあまりに長くて、人生と言うにはあまりに短い数年間の記憶。生きるのに必死すぎて、細かくはあまり思い出せない、美しい世界がそこにあった。楽しかったな。ああ、本当に楽しかった。
と、隣にいた母親に肩を叩かれて顔を上げた。待合室でぼんやりしていた僕は、母に連れられて立ち上がる。聞こえないわけじゃないが、補聴器を付けてなお、かつてあった日常には届かない。ステージなんて以ての外だ。それでも僕は生きていて、誰かのたくさんの優しさのおかげで多少の不自由もなんとかなっている。それでいいじゃないか、と言い聞かせていたら、そのうちに診察室に辿り着いた。開けるといつもの先生が小さく手を振っていた。僕は笑みを作って、それに手を振り返す。
耳がまた聞こえにくくなったぶん、ずいぶんといろいろなものが目に入るようになった。ひとつ失うと他の感覚が鋭くなるとか、たぶんそんなのだと思う。転がるボール、はしゃぐ子供の表情、太陽を反射する川面の色彩。そんな中を、僕は母と肩を並べてとぼとぼと歩いている。バンドが解散する少し前から、聴力の都合もあって僕は実家へと帰っていた。騒がしい都市部から閑静な地元に帰ってきたわけだが、町並みももうだいぶ変わっていて驚いたというのが正直な気持ちだ。せいいっぱい走っていたから、脇目も振らずに駆けてきたから、気付かなかった。それなら、かえってよい休みなのかもね、なんてことを思う。
ふと、振動。聞こえずとも腹を掠めるその揺れの震源地に自然と視線が向く。涼やかな秋の風にかまけて開きっぱなしの楽器屋のドアの先、ガラスに半透明に映る染めた髪の生え際だけ黒くなった自分を透かした向こうに、あの日と同じようにドラムセットが置かれていた。そこに少年が座って、目を輝かせて、おっかなびっくり音を立てては笑っている。
ドラムが好きだ。聞こえなくても、有ることが分かるから。
その響きを、掌に伝わる衝撃を、踏み込むペダルの重さを、全て、全て覚えている。
耳ではなく、身体で。
一つだって忘れていない。
忘れてはいけない。
忘れるわけがない。
忘れられる、わけがない。
気が付いたら泣いていた。本当はやめたくなかった。オレは胸ぐら掴んででも止めるべきだった。例え導かれたのが神の気まぐれだったとしても、例えそれが彼の苦難の始まりだったとしても、それは確かに運命だったから。追いかけた背中が突然消えても、その夢の終わりがどれほど悲惨でも、脳を灼いたその閃光はオレを掴んで離さなかった。ちょうど、この星の重力みたいに。
「オレ、まだやりたいよ」
言葉が零れた。堰を切ったように、あの日喉の奥で溢れる前に飲み込んだ言葉が、濁流みたいに押し寄せてくる。
「ロックは楽しくなきゃいけないんだ。あんな終わりかたなんてないよ。まだやりたいんだよ、やめたくないんだよ。ダサくてもリズムがブレブレでも、全力尽くして楽しむのがオレたちのロックなのに、なのに、なんで、」
そこで母に抱き寄せられて、言葉を継げなくなって、ただ泣きじゃくった。人目を憚らずに涙を流したのは、幼子の頃以来だったろうか。山から吹き降ろす風が、ひときわ強く吹き付けた、気がした。
その夜、「またやらない?」と、たった一言だけ、いつかの日から動かなくなったグループチャットに投げ込んで、携帯を机の上に放り投げた。返事はまだ見ていない。
追憶、人生の一頁 Garm @Garm
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